Tuesday, September 19, 2006

吉村昭氏の死 (2006/09/18)[o]

ポーランドから帰って 一番ショックだったのは 吉村昭氏が亡くなったことでした。

小生のように ノンフィクションを書くものにとって 吉村氏の書かれた歴史小説は、凄いお手本でした。

足で現場を見て回り、徹底的に取材していくー、 これが 本を書く基本だと 吉村氏の本で教わり、真似してきました。
人の書いたものは 参考にしても、自分で直接見て 聞いて 納得して書くことが必要と、一冊の本を書くのに、2年以上かかったのも、吉村氏の影響です。

小生のメールの中でも 何回かお名前を出しています。 いわゆる歴史小説は 全部読ませていただきました。

「黒船」「ポーツマスの旗」「深海の使者」「戦艦武蔵」「高熱随道」「アメリカ彦蔵」 他他 みんな読み応えがある 素晴らしい作品でした。 小生の 歴史、戦争に関する知識は 吉村氏の本のおかげで かなり増えました。

また、吉村氏は 原稿の締切日に 一度も遅れたことが無かったそうですが、実は 小生、放送作家だったときに やはり、締め切りに遅れたことは 一度もありませんでした。
ただ理由が違い、小生は 締切日を守る作家ということで、仕事を貰いたかったからです。

放送作家は 締切日を守らないのが大半で、そのため プロデューサーやディレクタ-は、サバを読んで 締め切りの日や時間を早くして 言ってくるのです。
中には、原稿料を三倍払うから 締め切りを守ってくれ、とまで言われて それでも守れなかった人もいました。 (昔の生放送の頃です)
小生は そこまでの仕事は来ませんでしたから、あいつは締め切りには原稿入るよ、という評判を立ててもらえば 少しは仕事が来るかと思い、守ったのです。

芥川・直木賞は取れなくても、ほかに賞をたくさん受けられている吉村氏が 「プロの鑑」と言われるまでに締め切りを守られたのは、人柄の誠実さの表われだと思います。

亡くなった後、奥様の芥川賞作家津村節子さんの話に また、大ショックを受けました。

吉村氏は 舌がんと膵臓がんで亡くなられたのですが、今年の2月に手術を受ける前に、自分がガンであることを悟られぬよう、親類にすら そのことを言わず、自分の病気を隠し通したそうです。

そして、死期が近づくと 「延命措置不要」の遺書を書き、津村夫人に 「死ぬよ」と声をかけ、自らカテーテルを引き抜き、数時間後に亡くなった由。

人生一杯に素晴らしい本を書き、最後は自らの意思で自らの生涯を終える。
こんなことは とても小生のような凡人には出来ないことです。

津村夫人は 吉村氏の意思を尊重されたようですが、目の前で 夫に 「死ぬよ」と言われ、かなりショックを受けられたようで、文春などにも このことを寄稿されています。

日本人の男の平均寿命は78歳ですが、75歳での平均余命は、まだ、11年もあります。
貴兄も小生もまだ10年以上生きねばなりませんが、遺書は書けても 自らカテーテルを引き抜くようなことができるかどうか。

人間の価値を自ら判断し、三途の川を何時渡るかを決められる心境に至るまでには、まだまだ修行が足りないと小生は思っています。

小生、墓は不要、骨は海に散骨、従って、小生が生きてきた記録は 身内の脳裏にだけ残す、
とここまでは決めましたが、吉村氏の生き方をみて、もう一度考え直します、 どう死ぬべきかをー。

なお、吉村氏は 宗教は信じていませんでした。
「誰か一人の考えを信じることなんて、とても出来ない」 これが、彼の考えですが、小生もこの考え方には同調します。

お互い年は年ですから、こういうことも 話題でよいかな、と書きました。

仕事の方は、この前書いたようにコンサルの仕事は今年一杯で辞めることにしました。
これで、来年からの予定表が空欄になったので、じっくり人生の第4楽章をもう一度考えます。 新世界のように、第5楽章を作るべく。

もう少し将来の希望をもって お互い頑張りましょう。 (06/09/18)

Friday, September 15, 2006

映画の話 (2006/09/15)[o]

今回送った山田洋次は、寅さんシリーズが有名ですが、送ったビデオ以外にも良い作品はたくさんあります。

前回、一番好きな時代劇で「七人の侍」を送りましたが、あの映画の脚本を書いた橋本忍氏が「複眼の映像 私と黒沢明」という本を出しました。
読んで、一驚しました。

黒沢映画が何故面白く、何故、つまらなくなっていったかが、全て判ったのです。

黒沢も橋本も、脚本が良ければよい映画が出来る、という点で一致しているのですが、そのためには、先ず、1 テーマ  2 ストーリ  3 人物設定 を複数の人間の話し合いで、きちんと決めてから、シナリオを書いたとのこと。これだけで、1月かかることもあった由。
シナリオを複数の人間で書くから、「複眼の映像」のタイトルがついているのです。

「七人の侍」は、黒沢と橋本が これに沿ってシーンを書き、小国英雄は シナリオは書かず、それをチェックして 面白い方を選ぶ役割をする方法で、脚本を完成させたとのこと。

これが、橋本をして「七人の侍」は ベスト映画で これ以上のものは望めないと、言わしめたのです。 「生きる」も同じ方法だったようです。

ところが、その後、黒沢は シナリオの書き方を変え、小国英雄にも書かせ、みんなの書いた中から良いものを選ぶ方法にしたため、チェック役がいなくなり、脚本がつまらなくなったと言うのです。

それが「生きものの記録」「蜘蛛巣城」あたり、

その後、黒沢のやり方についていけない者も出て、遂に、黒沢には反論できない若手の井手雅人を使って「影武者」「乱」といった 小生が見ても面白くない作品になっていきます。

そして、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」の 最後の3作品は、黒沢一人の脚本になっていくのです。

橋本氏はもう85歳を超え、シナリオ以外の本を書くときは遺書しかないと言っていた人ですから、そのつもりで、この黒沢との話を書いたと思います。

彼は黒沢に見出され、黒沢を人一倍尊敬していますが、黒沢の映画作りの本質を ここまではっきり書いた人はいません。

ここでは簡単に内容を紹介しておくに留めます。

そういえば、山田洋次も 自分と他の脚本家と共同でシナリオを書いています。
山田作品に低レベルのものが無いのは、そのせいでしょうか?

それから、前回のメールの追加です。

甲飛は高専卒、乙飛は中卒、丙飛は高小・小卒と学校の卒業レベルで、区分していました。

それから、 野口さんが書かれた 日本の傑作飛行艇 二式大艇は 一機現存していて、東京のお台場にある「船の科学館」の入り口に置かれています。 一見に値します。

行くたびに 四発の大きな機体に見とれますが、 このままだと 錆びたり、風化しないか、心配です。 屋根の無いところにあるのです。

(06/09/15)

銃乱射 (2006/09/14)[o]

こちらも秋の風が吹き、大分涼しくなりました。
最高23~24℃というと、先日のヴァンクーバーなみです。

とうとうカナダでも、学校で銃の乱射事件が起きたようですね。

アングロサクソンのような狩猟民族は、やはり銃がお好きなようで、日本のような農耕民族はせいぜいナイフか小刀ですが、もとは、銃を自由に持てるかどうかでしょう。

日本も犯罪が増えていますが、もし、銃の携帯が自由だったらもっと凄いことになっていたと思います。

先日、井上さんが予科練の事を書いておられましたが、既に 小さいですが 資料館があることはご存知でしょうか? 小生、二度行っています

場所は、土浦の旧予科練のあった海軍航空隊跡で、現在は陸上自衛隊の武器学校になっています。(阿見町青宿121,Tel 0298-87-1171)

入り口で、住所氏名を書けば、誰でも入れます。駐車場もあります。

予科練資料館は 小さな木造で、置かれているのは、予科練で使われた教科書、予科練出身者の手紙、遺書などで、江田島に比べると かなり少ないのですが、戦争の悲惨さは 充分伝わってきます。

驚いたのは 海軍パイロットの撃墜王で 150機以上落としたと言われる 西沢広義 の肖像画があったことです。

彼の人柄の偉大さを讃えて、フィリッピンの画家が書いたものです。

西沢が亡くなったのは、フィリッピンで 飛行機を受け取りに 輸送機で移動中のことだったのですが、彼の凄さは フィリッピン人にも影響を与えていたようです。

今回は 恐らく この資料をもっと充実させる目的で、出身者が呼びかけているものと思われます。

なお、井上さんもご存知だと思いますが、予科練のパイロットには 甲飛、乙飛、丙飛があります。

学歴によって、この甲乙丙をつけたのですが、海軍の差別も丙までつけるとはあきれます。

現実には、江田島出身のパイロットより 予科練出身の兵、下士官パイロットの方が、飛行時間も長く、断然、腕が良かったのですが、海軍は、江田島出身者を隊長にして、多くの空戦でやられているのです。

そんな学歴差別のせいか、確かに 現資料館は小さく、江田島より見劣りがします。

それでも、時間のある方は 一度行かれることをお薦めします。 {06/09/14)

Sunday, September 03, 2006

アウシュヴィッツ訪問余話 (2006/09/03)[o]

アウシュヴィッツのことは 少しでも多くの人に知ってもらい、そして訪ねて欲しいところです。

あの文章を書くときも 個人の感情をなるべく入れないように、客観的に書くよう、帰国後直ぐには書かなかったのです。

そのくらい印象が強烈でした。

今日は私信で少し裏話など書きます。

小生自身、ユダヤ人の芳しからぬ評判も、イスラエルのことも 僅かですが知っています。

しかし、一つの民族でありながら 帰る祖国を持たず、ナチスの暴力の前に 消えていった人がいたことは、事実なのです。

それは 人類の歴史の1ページとして、消すことは出来ません。

だから、小生も見なければならぬと思い続け、家内も絶対に行きたいと言っていたのです。

家内が出かける寸前まで 調子が良くなく、心配したのですが、思いがけず元気で、行く前に「夜と霧」を読んでいたので、小生のほうがびっくりしました。

行って良かった、百聞は一見にしかず、と、家内も言います。

「リオのカーニヴァル」と「アウシュヴィッツ」は、行かねば判りません。 全く性質のことなるものですが、一見に値します。

無教養で 信心の一回もしたことが無い年寄りの小生ですら、感じることが沢山あったのですから、感受性の強い若者に 是非、見に行って欲しいと念じています。

現地で会った日本人は 我々のようなツアー以外では、若い男性一人でした。 例の「地球の歩き方」を手に持って、一人旅でした。

勿論ガイドなしだったので、小生が「一緒に聞いていったら」と声をかけたら 喜んでついてきました。

彼は 我々のようなイヤホーンは持っていないので、中谷さんの声を聞きたかったのか だんだん前に出て、何時の間にか中谷さんの隣にずっとついて 話を聞いていました。

中谷さんも ツアーの一員でないことは直ぐわかったようですが、彼に口を寄せるように話してくれていました。

それは、正に 中谷さんが言っている「ここから平和を伝えたい」という姿勢そのものに見えました。

見学終了後、中谷さんに名刺を出して挨拶し、今後聞きたい事が出るかもしれないので、と言って 名刺を貰いました。

彼はシャイな人で ツアーのみんなのお礼の拍手も受けずに そこそこに帰っていきました。

彼は ポーランド語の試験に受かって 97年から このガイドをしているそうです。

帰国後、金嬉老の本を贈ったりして 一応、連絡の取れる形にしてあります。
ビデオも、中谷さんへ送るつもりです。

ALOHAさんも ユダヤ人には思いがあるのを感じ、そうした感情を持つ人こそ 見に行ってもらいたい と思っています。

(06/09/03)

Saturday, September 02, 2006

アウシュヴィッツその2 (3006/09/02)[o]

さて、前回は アウシュヴィッツの 第1収容所の話を書いたので、今日は 第2収容所のことを書きます。

第2収容所はビルケナウと呼ばれ、第1から2キロほど離れたところにあります。
よく映画などで、貨物列車が着き、ユダヤ人が大勢降ろされるところが出てきますが、あれはこのビルケナウの入り口です。
線路も入り口の建物もそのまま残っています。

そこで貨車から降ろされた人々は、ナチスによって「労働可能者と不可能者」に選別されます。 可能者は25%程度だったと言われています。

そして、このあと 二つのグループが再会することはありません。

労働不可能の者は、ほとんどが女性と子供で ガス室へ送られるからです。

広大な敷地に 300からの収容棟が建てられ、レンガ造りのものは女性用、そして木造のものは男性用だったようですが、300のうち、現存するのは数十でしょう。 ナチスも物資が不足し、レンガで収容棟を造ることが出来なくなり、大半が木造のバラックになったのです。

中も、トイレも コンクリの段で 50センチ置きくらいに穴が空いているだけ、 中央にオンドル式に暖房用の煙突があります。

ポーランドは 10月には雪が降るという 寒冷地帯ですから、木造の建物の中は 相当な寒さになったと思われます。 そこで、収容者は 3段ベッドで わらにくるまって寝ていたとのことです。

1945年の戦争が終わったあとの冬、寒さに耐えかねたポーランドの住民が この木造の建物を壊し、燃料に使ってしまったため、バラックの建物は 現存するものは僅かです。

従って、残念ながら 第1のように 全てが残されてはいません。

ガス室も 死体焼却炉も ナチスSS(親衛隊員)が ここから逃げるときに爆破し、瓦礫しか残されていません。

ただ、近くに 焼却された人間の灰が捨てられた池があります。 今でも この池をさらうと 人骨が見つかると言われていますが、静かなこの池の前には、幾つかの碑が建てられていました。

その静けさは なんとも形容の仕様がありません。

死人に口なし、と言いますが、ここアウシュヴィッツでは、残された建物から内部の品物に至るまで 全てが語ってくれます。

まさに世界遺産として残し、語り継ぐべきものです。

広大な収容所の周囲を取り囲む鉄条網、勿論それには電気が通され、さらに かなりの数の監視塔が建っています。

ここへ送り込まれた人々は、その瞬間から 何を思い、行動したのでしょうか。 早ければ 数日を経ずしてガス室送りになり、この死の池に運ばれることを、どれだけの人が知っていたのでしょうか。

8月27日、TBSが「世界遺産」という連続番組を放送し、そこでアウシュヴィッツを取り上げました。

その中で、ここアウシュヴィッツの住民が、この収容所の中で何が行なわれているかを、当時、人々が労働に出てきた収容者の体格、そして特有の煙突からのにおいなどから、だんだん中で、何が行なわれているか、判ってきたという話をしていましたが、それに対向することは 全く不可能だった、といっていましたがそれも良く判ります。

ガイドの中谷さんは「今いる60人のガイドは全員戦争を知らない世代です。 しかし、ここから 平和を発信することは出来ます。 一人でも多くの日本人が ここを訪れることを 望んでいます」と言って 説明を終えられましたが、そのとうりだと思います。

学校の修学旅行を、国内は広島、海外はアウシュヴィッツとすれば、戦争、平和に対する認識は、格段に変るのではないでしょうか。

ここまで、私はアウシュヴィッツを見学した感想を 一言も述べてきませんでした。
また、今 述べたくありません。

あの博物館と収容所を、私は2度くらいは見られるかもしれませんが、4回も、5回も見学する勇気はありません、 ということだけ申し上げておきます。

日本からポーランドに行くには、今は成田から直行便があります。
ただし、旅行会社がチャーターしたもので、ポーランド航空が自前で直行便を出すのは あと2~3年先のようです。

ポーランドの見所は、アウシュヴィッツのほかは、コペルニクス、キューリー夫人、シヨパンの家、そしてあとは中世に建てられた 石造りの街並みなどです。

なお、ポーランドの女性は美人が多く、これは 他の国と 何故か 決定的に違います。
街を歩くと楽しいですよ!

ポーランドは 周囲のドイツ、ソ連、オーストリア、スエーデンなどから侵略され続け、完全に独立したのは 東西の壁が崩れたときからですから、まだ、17年くらいです。

駅も道路も工事中のところが沢山あります。

ポーランド語は 文法がかなり難しいとのことですが、ドイツ語やロシヤ語とは全く別の言語です。

王宮を中心にした 絵画や彫刻などの文化も かなり残されています。

日本への関心はかなり強く、ワルシャワ大学にも日本語科があるそうです。

「戦場のピア二スト」の映画で有名になったシュピルマンもポーランド人ですが、演奏のために来日したこともあります。 長男は ロンドン大学で日本語を学び、今は九州大学の先生で 奥さんも日本人です。

なぜか、ポーランドは 遠くて近い国の感じがします。

ここまでで、感想は終わりにします。

家内と私と二人とも 以前からアウシュヴィッツを見に ポーランドへ行きたかったのですが、直行が無く、かなりの時間がかかるため、たまたま直行便が出る広告を発見し、無理して行ってきました。

片道11時間のフライトは 疲れたけど、行って良かった とつくづく思います。

仕事が無くなったら、また、旅の虫がうづきそうですが、もう、飛行機で10時間以上かかるところは、無理でしょう。

75歳くらいまでは 海外に出られても、そのあとは 国内中心になりそうです。

(06/09/02)

アウシュヴィッツその1 (2006/08/31)[o]

少しずつ時間を作って、ポーランドのことを書きます。

アウシュヴィッツへ行くには、ポーランドの首都ワルシャワからは、日帰りはかなり難しいので、スロヴァキアに近いクラクフという ポーランド第2の都市に泊まります。 そこから約50キロ、バスで1時間半くらいで、オシフィエンチムという田舎町に着きます。
このオシフィエンチムをドイツ語読みにすると、アウシュヴィッツなのです。

バスの右手に 鉄条網とレンガの建物が突然見えてきたら、それが第1収容所の建物でした。
こんな田舎に収容所を作ったのは ここがヨーロッパ各地から来る上での交通の便が良かったからです。

かなり広い駐車場も 10時前なの にほぼ満車状態。 英語、ドイツ語、イタリヤ語などが飛び交っていて 世界各国から来ていることが判ります。

博物館、収容所跡は 全部をゆっくり見たら、数時間必要でしょうが、残念ながら 団体ツアーの我々は 3時間弱の時間しかありませんでした。

それでも、ガイドにここで60人いるガイドの中の 唯一の日本人、中谷剛さんがついてくれたので、助かりました。
ガイド無しにここを見るのは 先ず、無理です。

入館料は無料ですが、ガイドを頼むと 日本円で6~7千円かかるようです。

博物館に入って この収容所が 最初は ポーランドの政治犯を収容する目的で作られ、それが ユダヤ人を初め、ポルトガル、ロシヤなどの政治犯、エホバの証人、ジプシー、同性愛者を収容し、そして ユダヤのホロ-コーストに変っていった過程の説明があり 「働けば自由になる」の有名なスローガンをかかげた門をくぐって 第1収容所跡の レンガ作りの建物(全28棟)に入ります。

そこで先ず見せられたものは、おびただしい毛髪でした。 生地を作るため、収容者の毛髪を刈りとったのですが、それが 25メータープールより広い場所に山積みにされています。 ガラスごしに見られる巻き毛、白髪、黒髪、三つ編みの毛ーー僅か60年前の人の毛髪です。 毛髪で作られた生地、絨毯などが置いてあります。
時間は経っていても、間違いなく 毛髪はその原型を留めています。

これを見てから、観光客の人々は ほとんど口を開かなくなりました。

アウシュヴィッツのことは、本やテレビ、映画などで ほとんどの方は どんな処かご存知でしょう。
私も、夜と霧を読み、「夜と霧」「シンドラーのリスト」などの映画も見、行くバスの中でビデオも見せられました。

しかし、現実に目の前にこの毛髪を見たときから、百聞は一見にしかず、とはこのことを痛感させられたのです。ホロ-コーストの犠牲者の存在がこの毛髪に凝縮されて見えたのです。

毛髪だけでなく、めがね、靴、衣類、貴金属、義手・義足に至るまで、山積されているのを見て、ホロ-コーストの実態が、私を圧倒してきました。 それぞれが生半可な量ではないのです。

あとで返すから 一時的に預かるといって 収容者から取り上げたカバンには、あとで戻ってきたときに判りやすいようにと、収容者が ペンキなどで書いた 名前、住所などが 大きく書かれ、そのカバンは 勿論持ち主に返されぬまま、山積されて 置かれてあります。

この収容所だけで、2万人以上収容していたのです。
そして、75%が殺されたのです。

ドイツから奪ったものを、ただ取り戻しただけだ、と当時のナチスは広言していたそうです。

この頃から、各ガイドのまわりは 熱心に話を聞く観光客によって集団があちこちに出来、ガイドの喋る各国語だけが響いて、観光客は一様に押し黙り、廊下ですれ違うときも、大変な混雑なのに、文句どころか こわばった表情を隠しもしません。

日本のツアーは 最近はガイドがマイクに向かった喋ると 観光客は レシーバーでその音声を聞けるため、10メーターくらい離れていても説明が聞けます。

しかし 他国の観光客では このイヤホーン式のレシーバーを使っているのは見かけず、従って、大声を出して説明せざるを得ないのです。

勿論、みんな一言一句聞き漏らすまいと必死ですから、静寂の中にガイドの声だけが響き渡っていました。

幾つかの建物を回り、内部の3段ベッド{この1段に4,5人が詰め込まれていた}、トイレ、洗面所なども見られます。 囚人の生活、衛生状態、囚人を使った人体実験、そうした現場が 当時のまま残されています。

そして、建物の前には 何人かの人々が 階段に座ったりしているのですが、ガイドの中谷さんの話では イスラエルから来た人が多く、当時、祖国もなく ここで死んでいったユダヤ人の身内のことを思って、動けなくなる人が多々いるとのこと。

現在も続くイスラエル問題も ここで討議したら別の結論が出るのではないかと思わせる光景でした。

中谷さんの説明は淡々と余計な感情を交えず、真実のみを語る素晴らしいもので、ツアーに付いていたポーランド人のガイドも「彼の説明は最高」と絶賛していました。

囚人の特別牢獄、銃殺に使われた死の壁(銃殺には消音銃まで使った)そしてガス室、死体焼却炉。 絞首刑用の木枠。

シャワーを浴びさせるといつわって連れ込んだガス室では、当時、青酸ガスを出した穴までそのままです。

110万とも150万人ともいわれた囚人が殺され焼かれたのです。 囚人の名簿が無いのですから、人数は推定せざるを得ないのです。

このチクロンBという殺虫剤(殺人用化学物質)の発注書の控えまで残されています。

死体処理も 同じ囚人を使ったいたとのことですが、彼等には よい食事や衣類を与えて優遇し 最後は口封じで殺す、というやり方を繰り返していたとのこと。

ナチスのやり方は、囚人同士を巧く使い、ゲートの前で 働きに行く囚人を励ます音楽を演奏するのも囚人、食事を作ったりするのも勿論囚人
こうして、選ばれたものを巧みに操り、ナチスに協力させたのです。
誰か心理学者を使ったのではないかとも思わせるやり方です。

ここまで見るだけでも、相当な勇気というか、エネルギーが必要でした。

この焼却炉の近くに、この収容所のヘス所長の住んでいた家が残っています。
彼は、戦後逃げた後逮捕され、ここで死刑になったのですが、そのとき「俺はヒットラーにだまされた」と言っていたそうです。
全員が被害者意識になったのですから、凄い手口です。

ここまでで、かなり書くのに疲れました。

どうしても見ておきたいとの願いで行ったアウシュヴィッツですが、こうして思い出して書くだけでも、あの惨状を思い出します。

以下、次回に書きます。 (06/08/31)