淵田美津雄2
「淵田美津雄 2」
2008年2月18日
寒さは今週末になると少し和らぐとの予報に なんとなくホッとしています。もう少しの辛抱かな? なにしろ、寒さは苦手です。 前回は淵田の伝道師の話を主に書きましたが、肝腎のハワイ奇襲攻撃の時の彼の話を書きましょう。
アメリカでも「ハワイを攻撃するときどんな気持ちだったか?」というのが一番多く彼に浴びせられた質問だったようですが、彼は昂然と「男に生まれて良かった! 海軍航空隊に入って総攻撃の隊長に選ばれたことは、男子の本懐ここにありと思った」と言っています。
もちろん彼を含め全日本海軍は、開戦通告が遅れていて、ダマシ攻撃になっていたことは全く知らなかったのですから、エトロフ島のヒトカップ湾を出てから隠密行動でハワイに近付き、奇襲攻撃になったことを喜ばないはずはありません。
360機の攻撃隊の隊長になり、世界でも稀な最大のイベントに参加できたのですから、当然でしょう。
トラ・トラ・トラの攻撃機からの電信は、旗艦の長門だけでなく、日本の海軍省にまで届いたそうですから、これも信じられない話。微弱な電波が良く届いたものです。
奇襲攻撃の印の信号弾を2回打ったのも本当で、1回目に打ったとき、前方上空を飛ぶ護衛の戦闘機が気付かなかったため、2度打ったそうです。
1回は奇襲攻撃、2回打ったら強襲(敵に気付かれ反撃された時の攻撃方法で、水平爆撃・雷撃・急降下爆撃の順序が少し異なっていた)という合図になっていたため、一部の攻撃が強襲になり、隊列がやや乱れたものの、攻撃は大成功。
彼の乗っていたのは97式艦上攻撃機で、水平爆撃も、雷撃もできる単発・低翼・三人乗りのもので、彼は水平爆撃に参加し、1回目うまく標的を捉えられず、Uターンして2回目に爆弾を投下しています。
アメリカ軍の反撃も早く、彼はこの爆撃の際被弾し、操縦桿が切れかかったまま、そのあと3時間もオアフ島の上を飛び続け、戦果を確認し、次の攻撃目標の石油タンク・海軍工廠の位置などを調べて、迷子になりかけたゼロ戦2機をお供に帰艦しています。ガソリンタンクはほとんどゼロ、操縦桿も切れかかっていて整備士がよくこれで飛べた、と驚いたそうです。
彼も第2次の攻撃にすぐ出発するつもりだったようですが、山口多門などの督促も聞かず、南雲司令官が帰国の指示を出したことはご存知でしょう。
この弱気が、あとあと、ミッドウエイを初め、連合艦隊の壊滅につながります。
南雲はミッドウエイでやられ、サイパンで追い詰められて自決し、その生涯を終えますが、淵田の生涯と比べると、可哀そうな気もします。
日本に帰ってから、佐官級としては異例の天皇への直接報告がなされ、天皇は予定時間を大幅に過ぎても戦果を聞かれたそうです。
そして、最後に「お聞きになりたいことがまだありますか?」とお尋ねしたら、「この写真を皇后に見せたいから、持って行っていいか?」と攻撃隊の撮影した写真をそのまま持ち帰られたとのこと。
先日、この説明会で使われた真珠湾の模型がたしかアメリカで競売に付され、異例の価格がついたというニュースを新聞で読んだことがありますが、まだこの模型が残っているとは、驚きです。
誰が持ち帰り、保管していたのでしょうか?
淵田自身も今頃、あの世で驚いていることでしょう。
パソコンで原稿を打つのは、ワープロに比べると疲れます。
今日はこの辺で。
阿部基冶
2008年2月18日
寒さは今週末になると少し和らぐとの予報に なんとなくホッとしています。もう少しの辛抱かな? なにしろ、寒さは苦手です。 前回は淵田の伝道師の話を主に書きましたが、肝腎のハワイ奇襲攻撃の時の彼の話を書きましょう。
アメリカでも「ハワイを攻撃するときどんな気持ちだったか?」というのが一番多く彼に浴びせられた質問だったようですが、彼は昂然と「男に生まれて良かった! 海軍航空隊に入って総攻撃の隊長に選ばれたことは、男子の本懐ここにありと思った」と言っています。
もちろん彼を含め全日本海軍は、開戦通告が遅れていて、ダマシ攻撃になっていたことは全く知らなかったのですから、エトロフ島のヒトカップ湾を出てから隠密行動でハワイに近付き、奇襲攻撃になったことを喜ばないはずはありません。
360機の攻撃隊の隊長になり、世界でも稀な最大のイベントに参加できたのですから、当然でしょう。
トラ・トラ・トラの攻撃機からの電信は、旗艦の長門だけでなく、日本の海軍省にまで届いたそうですから、これも信じられない話。微弱な電波が良く届いたものです。
奇襲攻撃の印の信号弾を2回打ったのも本当で、1回目に打ったとき、前方上空を飛ぶ護衛の戦闘機が気付かなかったため、2度打ったそうです。
1回は奇襲攻撃、2回打ったら強襲(敵に気付かれ反撃された時の攻撃方法で、水平爆撃・雷撃・急降下爆撃の順序が少し異なっていた)という合図になっていたため、一部の攻撃が強襲になり、隊列がやや乱れたものの、攻撃は大成功。
彼の乗っていたのは97式艦上攻撃機で、水平爆撃も、雷撃もできる単発・低翼・三人乗りのもので、彼は水平爆撃に参加し、1回目うまく標的を捉えられず、Uターンして2回目に爆弾を投下しています。
アメリカ軍の反撃も早く、彼はこの爆撃の際被弾し、操縦桿が切れかかったまま、そのあと3時間もオアフ島の上を飛び続け、戦果を確認し、次の攻撃目標の石油タンク・海軍工廠の位置などを調べて、迷子になりかけたゼロ戦2機をお供に帰艦しています。ガソリンタンクはほとんどゼロ、操縦桿も切れかかっていて整備士がよくこれで飛べた、と驚いたそうです。
彼も第2次の攻撃にすぐ出発するつもりだったようですが、山口多門などの督促も聞かず、南雲司令官が帰国の指示を出したことはご存知でしょう。
この弱気が、あとあと、ミッドウエイを初め、連合艦隊の壊滅につながります。
南雲はミッドウエイでやられ、サイパンで追い詰められて自決し、その生涯を終えますが、淵田の生涯と比べると、可哀そうな気もします。
日本に帰ってから、佐官級としては異例の天皇への直接報告がなされ、天皇は予定時間を大幅に過ぎても戦果を聞かれたそうです。
そして、最後に「お聞きになりたいことがまだありますか?」とお尋ねしたら、「この写真を皇后に見せたいから、持って行っていいか?」と攻撃隊の撮影した写真をそのまま持ち帰られたとのこと。
先日、この説明会で使われた真珠湾の模型がたしかアメリカで競売に付され、異例の価格がついたというニュースを新聞で読んだことがありますが、まだこの模型が残っているとは、驚きです。
誰が持ち帰り、保管していたのでしょうか?
淵田自身も今頃、あの世で驚いていることでしょう。
パソコンで原稿を打つのは、ワープロに比べると疲れます。
今日はこの辺で。
阿部基冶
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