Saturday, September 02, 2006

アウシュヴィッツその1 (2006/08/31)[o]

少しずつ時間を作って、ポーランドのことを書きます。

アウシュヴィッツへ行くには、ポーランドの首都ワルシャワからは、日帰りはかなり難しいので、スロヴァキアに近いクラクフという ポーランド第2の都市に泊まります。 そこから約50キロ、バスで1時間半くらいで、オシフィエンチムという田舎町に着きます。
このオシフィエンチムをドイツ語読みにすると、アウシュヴィッツなのです。

バスの右手に 鉄条網とレンガの建物が突然見えてきたら、それが第1収容所の建物でした。
こんな田舎に収容所を作ったのは ここがヨーロッパ各地から来る上での交通の便が良かったからです。

かなり広い駐車場も 10時前なの にほぼ満車状態。 英語、ドイツ語、イタリヤ語などが飛び交っていて 世界各国から来ていることが判ります。

博物館、収容所跡は 全部をゆっくり見たら、数時間必要でしょうが、残念ながら 団体ツアーの我々は 3時間弱の時間しかありませんでした。

それでも、ガイドにここで60人いるガイドの中の 唯一の日本人、中谷剛さんがついてくれたので、助かりました。
ガイド無しにここを見るのは 先ず、無理です。

入館料は無料ですが、ガイドを頼むと 日本円で6~7千円かかるようです。

博物館に入って この収容所が 最初は ポーランドの政治犯を収容する目的で作られ、それが ユダヤ人を初め、ポルトガル、ロシヤなどの政治犯、エホバの証人、ジプシー、同性愛者を収容し、そして ユダヤのホロ-コーストに変っていった過程の説明があり 「働けば自由になる」の有名なスローガンをかかげた門をくぐって 第1収容所跡の レンガ作りの建物(全28棟)に入ります。

そこで先ず見せられたものは、おびただしい毛髪でした。 生地を作るため、収容者の毛髪を刈りとったのですが、それが 25メータープールより広い場所に山積みにされています。 ガラスごしに見られる巻き毛、白髪、黒髪、三つ編みの毛ーー僅か60年前の人の毛髪です。 毛髪で作られた生地、絨毯などが置いてあります。
時間は経っていても、間違いなく 毛髪はその原型を留めています。

これを見てから、観光客の人々は ほとんど口を開かなくなりました。

アウシュヴィッツのことは、本やテレビ、映画などで ほとんどの方は どんな処かご存知でしょう。
私も、夜と霧を読み、「夜と霧」「シンドラーのリスト」などの映画も見、行くバスの中でビデオも見せられました。

しかし、現実に目の前にこの毛髪を見たときから、百聞は一見にしかず、とはこのことを痛感させられたのです。ホロ-コーストの犠牲者の存在がこの毛髪に凝縮されて見えたのです。

毛髪だけでなく、めがね、靴、衣類、貴金属、義手・義足に至るまで、山積されているのを見て、ホロ-コーストの実態が、私を圧倒してきました。 それぞれが生半可な量ではないのです。

あとで返すから 一時的に預かるといって 収容者から取り上げたカバンには、あとで戻ってきたときに判りやすいようにと、収容者が ペンキなどで書いた 名前、住所などが 大きく書かれ、そのカバンは 勿論持ち主に返されぬまま、山積されて 置かれてあります。

この収容所だけで、2万人以上収容していたのです。
そして、75%が殺されたのです。

ドイツから奪ったものを、ただ取り戻しただけだ、と当時のナチスは広言していたそうです。

この頃から、各ガイドのまわりは 熱心に話を聞く観光客によって集団があちこちに出来、ガイドの喋る各国語だけが響いて、観光客は一様に押し黙り、廊下ですれ違うときも、大変な混雑なのに、文句どころか こわばった表情を隠しもしません。

日本のツアーは 最近はガイドがマイクに向かった喋ると 観光客は レシーバーでその音声を聞けるため、10メーターくらい離れていても説明が聞けます。

しかし 他国の観光客では このイヤホーン式のレシーバーを使っているのは見かけず、従って、大声を出して説明せざるを得ないのです。

勿論、みんな一言一句聞き漏らすまいと必死ですから、静寂の中にガイドの声だけが響き渡っていました。

幾つかの建物を回り、内部の3段ベッド{この1段に4,5人が詰め込まれていた}、トイレ、洗面所なども見られます。 囚人の生活、衛生状態、囚人を使った人体実験、そうした現場が 当時のまま残されています。

そして、建物の前には 何人かの人々が 階段に座ったりしているのですが、ガイドの中谷さんの話では イスラエルから来た人が多く、当時、祖国もなく ここで死んでいったユダヤ人の身内のことを思って、動けなくなる人が多々いるとのこと。

現在も続くイスラエル問題も ここで討議したら別の結論が出るのではないかと思わせる光景でした。

中谷さんの説明は淡々と余計な感情を交えず、真実のみを語る素晴らしいもので、ツアーに付いていたポーランド人のガイドも「彼の説明は最高」と絶賛していました。

囚人の特別牢獄、銃殺に使われた死の壁(銃殺には消音銃まで使った)そしてガス室、死体焼却炉。 絞首刑用の木枠。

シャワーを浴びさせるといつわって連れ込んだガス室では、当時、青酸ガスを出した穴までそのままです。

110万とも150万人ともいわれた囚人が殺され焼かれたのです。 囚人の名簿が無いのですから、人数は推定せざるを得ないのです。

このチクロンBという殺虫剤(殺人用化学物質)の発注書の控えまで残されています。

死体処理も 同じ囚人を使ったいたとのことですが、彼等には よい食事や衣類を与えて優遇し 最後は口封じで殺す、というやり方を繰り返していたとのこと。

ナチスのやり方は、囚人同士を巧く使い、ゲートの前で 働きに行く囚人を励ます音楽を演奏するのも囚人、食事を作ったりするのも勿論囚人
こうして、選ばれたものを巧みに操り、ナチスに協力させたのです。
誰か心理学者を使ったのではないかとも思わせるやり方です。

ここまで見るだけでも、相当な勇気というか、エネルギーが必要でした。

この焼却炉の近くに、この収容所のヘス所長の住んでいた家が残っています。
彼は、戦後逃げた後逮捕され、ここで死刑になったのですが、そのとき「俺はヒットラーにだまされた」と言っていたそうです。
全員が被害者意識になったのですから、凄い手口です。

ここまでで、かなり書くのに疲れました。

どうしても見ておきたいとの願いで行ったアウシュヴィッツですが、こうして思い出して書くだけでも、あの惨状を思い出します。

以下、次回に書きます。 (06/08/31)

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