Saturday, September 02, 2006

アウシュヴィッツその2 (3006/09/02)[o]

さて、前回は アウシュヴィッツの 第1収容所の話を書いたので、今日は 第2収容所のことを書きます。

第2収容所はビルケナウと呼ばれ、第1から2キロほど離れたところにあります。
よく映画などで、貨物列車が着き、ユダヤ人が大勢降ろされるところが出てきますが、あれはこのビルケナウの入り口です。
線路も入り口の建物もそのまま残っています。

そこで貨車から降ろされた人々は、ナチスによって「労働可能者と不可能者」に選別されます。 可能者は25%程度だったと言われています。

そして、このあと 二つのグループが再会することはありません。

労働不可能の者は、ほとんどが女性と子供で ガス室へ送られるからです。

広大な敷地に 300からの収容棟が建てられ、レンガ造りのものは女性用、そして木造のものは男性用だったようですが、300のうち、現存するのは数十でしょう。 ナチスも物資が不足し、レンガで収容棟を造ることが出来なくなり、大半が木造のバラックになったのです。

中も、トイレも コンクリの段で 50センチ置きくらいに穴が空いているだけ、 中央にオンドル式に暖房用の煙突があります。

ポーランドは 10月には雪が降るという 寒冷地帯ですから、木造の建物の中は 相当な寒さになったと思われます。 そこで、収容者は 3段ベッドで わらにくるまって寝ていたとのことです。

1945年の戦争が終わったあとの冬、寒さに耐えかねたポーランドの住民が この木造の建物を壊し、燃料に使ってしまったため、バラックの建物は 現存するものは僅かです。

従って、残念ながら 第1のように 全てが残されてはいません。

ガス室も 死体焼却炉も ナチスSS(親衛隊員)が ここから逃げるときに爆破し、瓦礫しか残されていません。

ただ、近くに 焼却された人間の灰が捨てられた池があります。 今でも この池をさらうと 人骨が見つかると言われていますが、静かなこの池の前には、幾つかの碑が建てられていました。

その静けさは なんとも形容の仕様がありません。

死人に口なし、と言いますが、ここアウシュヴィッツでは、残された建物から内部の品物に至るまで 全てが語ってくれます。

まさに世界遺産として残し、語り継ぐべきものです。

広大な収容所の周囲を取り囲む鉄条網、勿論それには電気が通され、さらに かなりの数の監視塔が建っています。

ここへ送り込まれた人々は、その瞬間から 何を思い、行動したのでしょうか。 早ければ 数日を経ずしてガス室送りになり、この死の池に運ばれることを、どれだけの人が知っていたのでしょうか。

8月27日、TBSが「世界遺産」という連続番組を放送し、そこでアウシュヴィッツを取り上げました。

その中で、ここアウシュヴィッツの住民が、この収容所の中で何が行なわれているかを、当時、人々が労働に出てきた収容者の体格、そして特有の煙突からのにおいなどから、だんだん中で、何が行なわれているか、判ってきたという話をしていましたが、それに対向することは 全く不可能だった、といっていましたがそれも良く判ります。

ガイドの中谷さんは「今いる60人のガイドは全員戦争を知らない世代です。 しかし、ここから 平和を発信することは出来ます。 一人でも多くの日本人が ここを訪れることを 望んでいます」と言って 説明を終えられましたが、そのとうりだと思います。

学校の修学旅行を、国内は広島、海外はアウシュヴィッツとすれば、戦争、平和に対する認識は、格段に変るのではないでしょうか。

ここまで、私はアウシュヴィッツを見学した感想を 一言も述べてきませんでした。
また、今 述べたくありません。

あの博物館と収容所を、私は2度くらいは見られるかもしれませんが、4回も、5回も見学する勇気はありません、 ということだけ申し上げておきます。

日本からポーランドに行くには、今は成田から直行便があります。
ただし、旅行会社がチャーターしたもので、ポーランド航空が自前で直行便を出すのは あと2~3年先のようです。

ポーランドの見所は、アウシュヴィッツのほかは、コペルニクス、キューリー夫人、シヨパンの家、そしてあとは中世に建てられた 石造りの街並みなどです。

なお、ポーランドの女性は美人が多く、これは 他の国と 何故か 決定的に違います。
街を歩くと楽しいですよ!

ポーランドは 周囲のドイツ、ソ連、オーストリア、スエーデンなどから侵略され続け、完全に独立したのは 東西の壁が崩れたときからですから、まだ、17年くらいです。

駅も道路も工事中のところが沢山あります。

ポーランド語は 文法がかなり難しいとのことですが、ドイツ語やロシヤ語とは全く別の言語です。

王宮を中心にした 絵画や彫刻などの文化も かなり残されています。

日本への関心はかなり強く、ワルシャワ大学にも日本語科があるそうです。

「戦場のピア二スト」の映画で有名になったシュピルマンもポーランド人ですが、演奏のために来日したこともあります。 長男は ロンドン大学で日本語を学び、今は九州大学の先生で 奥さんも日本人です。

なぜか、ポーランドは 遠くて近い国の感じがします。

ここまでで、感想は終わりにします。

家内と私と二人とも 以前からアウシュヴィッツを見に ポーランドへ行きたかったのですが、直行が無く、かなりの時間がかかるため、たまたま直行便が出る広告を発見し、無理して行ってきました。

片道11時間のフライトは 疲れたけど、行って良かった とつくづく思います。

仕事が無くなったら、また、旅の虫がうづきそうですが、もう、飛行機で10時間以上かかるところは、無理でしょう。

75歳くらいまでは 海外に出られても、そのあとは 国内中心になりそうです。

(06/09/02)

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