Saturday, January 27, 2007

戦争と日本人 (2007/01/26)

サイパンから戻って1週間、いろいろ考えてみました。

昨年の映画のベスト10が出始めましたが、予想どうり 「硫黄島の手紙」 と 「父親たちの星条旗」 が キネマ旬報では 1,2位を占め、他でも 「手紙」 が1位になっていることが多いようです。

イーストウッド監督の 日米両方からあの戦争を見るという発想と、その描き方の確かさが この結果を生んだと見ます。
3月26日のアカデミー賞がどうなるか、見ものです。

今、日本では 硫黄島ブームみたいで 本も 新刊だけでなく、以前から出たのを増刷したり、広告も数多く出ていますが、先日、秋草鶴次さんという方が書かれた 「十七歳の硫黄島」 という本を読みました。 NHKの番組に出ていた方です。

17歳の海軍1等水兵で 通信兵として硫黄島で戦い、最後は怪我と飢えで意識不明のまま米軍上陸後、3箇月もしてから捕虜になった方が 書かれた本です。

その中で、たまたま手紙の件に触れていますが 「夜手紙を書くのは、お偉いさんだけ、 我々下っ端は 疲れて寝るだけ」 という記述がありました。

勿論、映画の前に書かれた本ですが、手紙を書けるだけでもよいほうだったのが判ります。

それにしても、あの戦争を客観的に見たり、反省したりすることを、日本という国は 何故、しないできてしまったのでしょうか。

どうも、日本人は 過去を振り返ってみたり、反省したり、客観的に見たりすることが、不得意な民族のように思えます。

天皇が 「あの戦争ー」 と言っているように、戦争の呼び方すら、決まっておらず、 何時から何時までを指すのかも判りません。

私は、1931年9月18日の満州事変から、1945年9月2日の降伏文書調印までを 「あの戦争ー」 と思っています。

中には 1928年6月の 張作りん爆殺事件が始まりだ と言う方もおられるようですが、それでもいいと思います。

関東軍が 勝手に 満州から領土拡大を図り、中国の侵略を企てたのが あの戦争の始まりと見ています。

日露戦争で得た 満州の権益に 酔ってしまったとしか思えません。

確かに 欧米ソが アジアの植民地化を進めていましたが、アジアの1国の日本が それを止めるどころか 自分まで領土拡大に走ったことは、返す返すも残念です。

張作りんの時に 関東軍を放置した田中義一首相、 満州事変のときも 同様に 若槻礼次郎首相が手がつけらなかった 政界の弱さ。

1937年には 日中戦争に拡大、 そして 1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込み 第2次世界大戦が始まると、もう完全に 日本は戦争から抜け出せず、 資源欲しさに 北部仏印、そして南部仏印にまで侵攻して アメリカの怒りをかいます。

石油と鉄が無ければ 完全に潰れる日本、 そして そのためには なんでもする。
アメリカは 当然よんでいた筈です。

こうしてルーズベルトが戦争を誘発したとの見方もあるようですが、日本が 満州のときに 国連視察団から 「NO」 の指摘を受けた時点で、日本の行き方は世界から否定されていたのです。

中国侵略で 蒋介石と戦い、 その蒋介石が 最初のハルノートの原案に絶対反対し、そのため、ハルノートが あの強いものに書き換えられたのですから、日本は正に自業自得だったわけです。

東条はそれに乗せられたのです。

1941,12,8からの戦争は、国として 「大東亜戦争」 と呼び方を決めていますが、天皇はこの呼び方を使っていませんから、「あの戦争-」 は ここからのものでない事は確かです。

因みに アメリカは 太平洋戦争と呼んでいます。

戦争中 大東亜共栄圏を唱え、 また大東亜戦争後、アジアの諸国が独立できたことで 戦争を正当化したりする人もいるようですが、これは 戦後 たまたま独立気運が高まった事で 良い結果が出たから そう言えるのであって、 戦争中に 九段会館で開かれた 大東亜会議に 各国が反発し、首相級は出てこず、形だけの会議になったことは 有名です。

各国は 日本が アジアを制圧するために 大東亜共栄圏を唱えたことは 見抜いていたのです。

こうした長い戦争は ほとんど東条内閣と陸軍の強行策で行なわれましたが、 海軍も 島田繁太郎を初め、大東亜戦争に協力した者も 数多かったはずです。

それでなければ あの インド、ニュ-ギニアあたりまで進出することは 不可能だったと思います。

その結果が、1931年以降、1945年までの 軍人230万人、民間80万人という死者です。

今ごろ、戦後60年以上経って イーストウッド監督が その戦争の中で 唯一、米軍の死傷者が 日本のそれを上回った 硫黄島を取り上げ、 それを 日米両方から描くという 凄いことを考えたのに比べ、日本では 戦争の名前も、戦争責任者も 全てベールに隠したまま。

民族性の違いでしょうか、 それとも監督の人間性の問題でしょうか。

先日 読売新聞が 「検証、戦争責任」 の特集をし、それをまとめた本も出ましたが、 その中では あの戦争を 「昭和戦争」 と呼ぶことにしています。

ただ、私は その呼び名だと 昭和天皇がその責任者みたいに聞えるので、のっていません。

国として あの戦争を きちんと総括することが 必要と私は思いますが、 貴兄はいかがですか?

今日は 映画のことを書くつもりが、 戦争全体の話になってしまいました。

阿部基治    abemotoharu.blogspot.com (07/01/26受信)

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