Thursday, December 21, 2006

硫黄島 (2006/12/21)

根屋さんの見方、若い方か、戦争を知らぬ世代でしょう。

硫黄島の戦いの目的は、確かに本土への攻撃を1日でも遅らせ、本土の防衛陣地を確固たるものにすることにありました。

しかし、36日戦って兵隊はみんな死にたかったのでしょうか?
最後まで、水も食料もなく、硫黄の噴出する炎熱地獄から、這い出して、生きたいと思ったのではないでしょうか?
手紙は、家族といつか再会することを望んで書いたのではないでしょうか?
生きたいのは誰でも同じ気持ちだったのではないでしょうか?

1941年、東条陸軍大臣の出した「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めを受けるな」と言われ、司令官の命なく退却することは「敵前逃亡」と言われた時代です。
生きたくても、生きるな、と教えたのが当時の軍部です。
人間で一番大事な生命をないがしろにすることを教えたのが、旧日本軍です。
それを疑問に思っていたのが庶民です。
また、パンを焼きたい、畑を耕したいと思いつつも 祖国を守るという大義名分で戦場に赴いたのです。

私も2回家を焼かれ、焼死体の片付けをして 学校に行き、校舎の屋上にあった高射機関砲のお陰で、機銃掃射を何回も受けました。
その怖さは 戦場に比べたら何十万分の一ですが、死にたいと思ったことは一度もありません。
常に、生きることを考えました、が、残念ながら友人の何人かは空襲で亡くなりました。

米英だけでなく、ドイツもソ連も 他国は最後まで戦えば、名誉の捕虜になったのです。
何故、日本だけが「死ね」と教えたのか。
平和に生活していた庶民が、立派に戦って それでも無理やりに死なねばならぬことは、不条理につきます。

私も祖国や家族を守るために戦え、といわれたら銃を取るでしょう。
しかし、それが「退却・捕虜無し。命を失うことが必要条件である」と言われたら、行きません。

武士道も、立派に生きることであり、死ぬことではなかったはずです。
武士道は死ぬことと見つけたり、という言葉もおそらく作り物でしょう。

それを、丸め込んできたのが当時の日本の軍部だと私は理解しています。

陸軍は本土決戦を主張し、8月15日の直前までポツダム宣言の受諾に反対していましたが、そのときに残っていた石油は 決戦用に保存していた飛行機約1万機を1回飛ばしたらなくなる量で、食料は軍人の分しかカウントしていませんでした。
海軍は壊滅していました。

それでも天皇には まだ戦えると嘘の報告をしていたのです。
我々には、いつか神風が吹く、とまで言っていたのです。

日清・日露・第1次世界大戦と 戦前・戦中の日本軍は、負け戦を知らぬことで、おごってしまったとしか思えません。
負けて初めて戦争の怖さ、ひどさを知ったといっても過言ではないでしょう。

アッツ島から始まって、マキン、タラワ、ぺリリュー島、サイパン、グアム島、硫黄島、そして沖縄と 玉砕戦が続きました。

民間人も多く亡くなりました。
それが あの支那事変・大東亜戦争だったのです。

310万人の死者のうち、もし、退却、捕虜が認められていたら、かなりの方が生きていたはずです。

これだけ申し上げたら、根屋さんも 少しは私が書いた本意を理解していただけるでしょうか。
根屋さんのような考え方はまだ、かなり残っていると思います。
それも日本の教育のせいでしょう。

人間、一人で生きていく以外に方法はありません。
これも運命。
お互い頑張りましょう。      (06/12/21)

Tuesday, December 19, 2006

硫黄島第2部 (2006/12/17)

硫黄島第2部「硫黄島からの手紙」やっと見てきました。これがハリウッド映画かとびっくりさせられる映画でした。台詞は98%は日本語、日本で作られたアメリカ反戦映画というのが第一印象です。

日本人よりも大東亜戦争当時の日本をイーストウッド監督はよく学んでいて、この映画を作ったことにまず驚きました。

農家の息子が、パン屋の親父が 召集令状1枚で戦場に狩り出され、千人針を持って 水も食料も不足する孤島へ送り込まれる。

そして、愛する家族、父母、妻子への切々たる思いを手紙に託す。

そうした平凡な庶民が 戦争という不条理な世界の中で、死んでゆく。

この姿を イーストウッド監督は、最初に「1944年硫黄島」のタイトルこそあるものの、何時から何時まで戦いが続き、日米あわせて何人の兵隊が死んだということは全く抜きにして、個人、個人の兵隊の苦悩をストレートに描いています。

その戦闘シーンの凄まじさは第1部以上です。

アメリカの物量戦の前で、むなしく精神論だけで 退却、降参も出来ず死んでいく日本兵。

それでも 第1部を見た硫黄島の生き残り日本兵が「あんな紙芝居みたいなものではなかった、見るに耐えず途中で映画館を出た」というコメントが新聞に載っていましたから、これでも実際の戦場を現していないのかもしれません。
それでも、館内では眼を覆ったり、下を向く人も見かけました。

こうした優れた反戦映画が 硫黄島を舞台に出来たことに 何とも言えない感動を覚えました。

しかもそれが 当時敵国だったアメリカ人によって作られたことに 日本人として恥ずかしさすら覚えました。

恐らくこの映画はたくさんの賞を取るでしょうが、貴兄もぜひ1・2部ともご覧になられることをお薦めします。

この映画が封切られた9日に フジテレビが、「硫黄島への郵便配達」というテレビドラマを流しました。

あの手紙を一式陸攻で硫黄島へ運んだパイロットの話です。

これも実話です。 ビデオをとってありますからその内に送ります。

イーストウッド監督も恐らくこのドラマを見ているでしょうが、出来は悪く、中で戦争だというのに ネクタイを締めている士官が出てきて仰天しました。 もっとも新聞では 褒めた視聴者評が載っていました。
もう、今のプロデューサー、ディレクタ-は 戦争を知りませんから 考証がでたらめなのです。
イーストウッド監督の方が余程日本を調べています。

ただ、このテレビドラマの中で 市丸海軍中将が書いた「ルーズベルト大統領への手紙」のことが出てきますが、私は九州の鹿屋の海上自衛隊の資料館でこの手紙のコピーを見ました。 残念ながら ルーズベルトはこの年の春急死し、この手紙を読むことはなかったのですが 内容は素晴らしいものでした。

あの戦争に勝っても アメリカは大変なことを背負い込むことになることを 市丸は見抜いていました。

戦争がどんなに自己主張に過ぎず、悲惨なことは判っているのに、未だに世界で戦争が起こります。

戦争を命じたトップがまず先頭に出て自ら戦うか、その後から兵隊が行くか、トップ同士でジャンケンでもして勝敗を決めるべきです。

大統領も首相も 後ろで旗振りだけしているのは もう誰もついていかないのではないでしょうか。                            」

今年はひどい年でした。 まだ年賀状1枚書いておらず、今から大晦日に向けて働き蜂の日々でしょう。 仕事を辞めてもこの状態ですから、来年も思いやられます。 なんとか少しでも健康で もう少し生きてやりたいことをやりたい。 こんな気持ちです。 (06/12/17)