Friday, February 22, 2008

情けない世の中

平成20年2月21日

情けない世の中‏

阿部基冶

拙文をメルマガに載せていただき、有難うございます。載ると思っていなかったので、載ってからあわてて、その2を書きました。そうしないと、淵田の戦後の改心した、もっともらしい、良さそうなところだけ書いた形になってしまうからです。

小生は戦前に生まれた一員として、少しは戦争を空襲・機銃射撃・勤労動員や2度の戦災、物資特に食糧難という形で体験したので、後世にというか若い人に戦争の悲惨さ、政治家や軍人の独断・ひどさなどを伝える義務があると思い、明治から現代への近代史の本を、実録を含め読み、時々貴兄にも書かせてもらっていますが、小生なりに、日本人はひどくなってきた、特に、昭和になってからはひどいと思っています。

特攻隊を送り出して生き延びた将軍も、一人や二人ではありません。インパールで10万人を無駄死にさせた牟田口蓮也、フィリッピンで特攻空軍を残して台湾に逃げた富永恭次、ともに陸軍のダメ将軍は、やはり戦後謝りもせずに生き延びています。

東條の自殺未遂も噴飯ものでした。
捕虜になるなと教えた本人が、自殺の方法も知らなかった!!

当時中学生の我々ですら、銃口を口にくわえれれば完全に死ねると知っていました。

海軍も特攻の発案者の一人、大西滝次郎は自決したからまだしも、同じ発案者の宇垣纏は終戦の詔勅の下りた後、8月15日の午後、部下30人近くを連れて最後の特攻で沖縄に突っ込んだのは有名ですから、ご存知でしょう。

航空出身なのですから、自分ひとりで操縦して行けばいいものを、3人乗りの天山艦攻を使ったため、死ななくてもいい部下を最後まで殺しました。

途中で機体の不良で不時着して助かったものが何人かいたのと、宇垣を初め、米軍に突っ込んだのが一人もいなかったのが、不幸中の幸い。もし、これで被害が出ていたら大問題になっていた可能性があります。

嶋田繁太郎にしても、開戦時の海軍大臣の責任を考えたら引込むべきなのにおめおめと生き延び、海上自衛隊に祝辞を述べに行ったというのですから、呆れるほかありません。

小生の調べでは、特攻機は海軍・1,298、陸軍1,185、計2,483
体当たり機数 244 至近弾となった機数 166 被害を与えた艦船数 358  奏功率 16.5%  という惨憺たる結果です。

シナ事変から大東亜戦争までの310万人という死者(軍人230万民間80万)に比べたら、人数は数千人ですが、彼らは「必らず死ね」だったのです。

数々の本や、身内で戦地からなんとか帰国できたものから聞くと、戦場では食料と水の不足から、仲間の日本兵を殺して水や食料を奪うものが多く、敵兵より味方に気を使ったと言っています。

陸軍の戦死者の70%は、飢えからと言われていますから、この話は嘘とは思われません。

「輜重兵卒が兵隊ならば、ちょうちょうトンボも鳥のうち」と兵站任務をさげすんだ陸軍の結果が、これです。

関東大震災の時、取材にきた外国の特派員が、一部では騒動があったものの、物資の配給などで日本人が整然と並び、奪い合いが少ないことに驚いたことを報道していますが、昭和の軍人はひどかったようで、日常、部下や新兵をリンチするのは陸・海軍とも当たり前。

捕虜収容所でも将校が威張り散らしたり、英語のできる者を生意気だとリンチしたり、情けない話がたくさん出てきます。

ソ連収容所での仲間を告げ口して売った話は、戦後、裁判にまでなりました(暁に祈るほか)

我々が戦中・戦後経験したことでも、軍人・警察など権力者のひどい威張り方、疎開者へのいじめ、一部の食料の独占など、日本人のモラル、倫理感の低下はひどく、それが最近でも政治家、官僚、そして庶民にまで依然として残り、低下しつづけています。

汚職は当たり前、企業でも表示の嘘、食べ物偽装まで大盛りです。生命軽視は特に最近多くなりました。

今回起きた、イージス艦と漁船の衝突一つ見ても、昔の、そこのけ・そこのけ の軍隊意識が残っている気がします。

こんな世の中なんとかしたくても、我々には1票を投じる以外、意思表示の方法がありません。

政治家だけでなく、官僚が日本という国を忘れ、自己中心の動きをするのですから、庶民はたまりません。

アメリカの次期大統領も、誰が勝つにせよ、戦争嫌いであることを願わずにはいられません。

今日は半分、愚痴になってしまいましたが、歴史から学びとることはたくさんあると思います。

もう、春もすぐに来るでしょうが、本当に暖かい春が来てほしいですね。
              
***********

明治維新のころの世界の中で孤立し、取り残されるという不安、国民全員が頑張らねばという一体感など、日清・日露・第1次大戦の戦勝で薄まり、消え去り、気が付けば陸軍が政治を支配し、政治家も5・15以来政党政治を忘れ、日本全体がおかしくなっていきました。

戦後の平和は、また平和ボケからカネ・カネの若者ばかりを作り、人を殺すことにもためらいが無くなりつつあります。

メルマガもそろそろ、3月末くらいで終わりにしたら如何? 
これだけ長い間、たくさんの人に読まれ、愛されたのですから、本望でしょう。
カナダに関心を持つ日本人は多かったのですから、ずいぶん、人助けをしたはずです。

阿部基冶

Wednesday, February 20, 2008

淵田美津雄2

「淵田美津雄 2」‏

2008年2月18日

寒さは今週末になると少し和らぐとの予報に なんとなくホッとしています。もう少しの辛抱かな? なにしろ、寒さは苦手です。 前回は淵田の伝道師の話を主に書きましたが、肝腎のハワイ奇襲攻撃の時の彼の話を書きましょう。
アメリカでも「ハワイを攻撃するときどんな気持ちだったか?」というのが一番多く彼に浴びせられた質問だったようですが、彼は昂然と「男に生まれて良かった! 海軍航空隊に入って総攻撃の隊長に選ばれたことは、男子の本懐ここにありと思った」と言っています。
もちろん彼を含め全日本海軍は、開戦通告が遅れていて、ダマシ攻撃になっていたことは全く知らなかったのですから、エトロフ島のヒトカップ湾を出てから隠密行動でハワイに近付き、奇襲攻撃になったことを喜ばないはずはありません。
360機の攻撃隊の隊長になり、世界でも稀な最大のイベントに参加できたのですから、当然でしょう。
トラ・トラ・トラの攻撃機からの電信は、旗艦の長門だけでなく、日本の海軍省にまで届いたそうですから、これも信じられない話。微弱な電波が良く届いたものです。

奇襲攻撃の印の信号弾を2回打ったのも本当で、1回目に打ったとき、前方上空を飛ぶ護衛の戦闘機が気付かなかったため、2度打ったそうです。

1回は奇襲攻撃、2回打ったら強襲(敵に気付かれ反撃された時の攻撃方法で、水平爆撃・雷撃・急降下爆撃の順序が少し異なっていた)という合図になっていたため、一部の攻撃が強襲になり、隊列がやや乱れたものの、攻撃は大成功。
彼の乗っていたのは97式艦上攻撃機で、水平爆撃も、雷撃もできる単発・低翼・三人乗りのもので、彼は水平爆撃に参加し、1回目うまく標的を捉えられず、Uターンして2回目に爆弾を投下しています。

アメリカ軍の反撃も早く、彼はこの爆撃の際被弾し、操縦桿が切れかかったまま、そのあと3時間もオアフ島の上を飛び続け、戦果を確認し、次の攻撃目標の石油タンク・海軍工廠の位置などを調べて、迷子になりかけたゼロ戦2機をお供に帰艦しています。ガソリンタンクはほとんどゼロ、操縦桿も切れかかっていて整備士がよくこれで飛べた、と驚いたそうです。

彼も第2次の攻撃にすぐ出発するつもりだったようですが、山口多門などの督促も聞かず、南雲司令官が帰国の指示を出したことはご存知でしょう。

この弱気が、あとあと、ミッドウエイを初め、連合艦隊の壊滅につながります。

南雲はミッドウエイでやられ、サイパンで追い詰められて自決し、その生涯を終えますが、淵田の生涯と比べると、可哀そうな気もします。

日本に帰ってから、佐官級としては異例の天皇への直接報告がなされ、天皇は予定時間を大幅に過ぎても戦果を聞かれたそうです。
そして、最後に「お聞きになりたいことがまだありますか?」とお尋ねしたら、「この写真を皇后に見せたいから、持って行っていいか?」と攻撃隊の撮影した写真をそのまま持ち帰られたとのこと。

先日、この説明会で使われた真珠湾の模型がたしかアメリカで競売に付され、異例の価格がついたというニュースを新聞で読んだことがありますが、まだこの模型が残っているとは、驚きです。
誰が持ち帰り、保管していたのでしょうか?
淵田自身も今頃、あの世で驚いていることでしょう。

パソコンで原稿を打つのは、ワープロに比べると疲れます。
今日はこの辺で。

阿部基冶

淵田美津雄2 2008/02/18 [o]

「淵田美津雄 2」‏

2008年2月18日

寒さは今週末になると少し和らぐとの予報に なんとなくホッとしています。
もう少しの辛抱かな? 
なにしろ、寒さは苦手です。

前回は淵田の伝道師の話を主に書きましたが、肝腎のハワイ奇襲攻撃の時の彼の話を書きましょう。

アメリカでも「ハワイを攻撃するときどんな気持ちだったか?」というのが一番多く彼に浴びせられた質問だったようですが、彼は昂然と「男に生まれて良かった! 海軍航空隊に入って総攻撃の隊長に選ばれたことは、男子の本懐ここにありと思った」と言っています。

もちろん彼を含め全日本海軍は、開戦通告が遅れていて、ダマシ攻撃になっていたことは全く知らなかったのですから、エトロフ島のヒトカップ湾を出てから隠密行動でハワイに近付き、奇襲攻撃になったことを喜ばないはずはありません。

360機の攻撃隊の隊長になり、世界でも稀な最大のイベントに参加できたのですから、当然でしょう。
トラ・トラ・トラの攻撃機からの電信は、旗艦の長門だけでなく、日本の海軍省にまで届いたそうですから、これも信じられない話。
微弱な電波が良く届いたものです。

奇襲攻撃の印の信号弾を2回打ったのも本当で、1回目に打ったとき、前方上空を飛ぶ護衛の戦闘機が気付かなかったため、2度打ったそうです。

1回は奇襲攻撃、2回打ったら強襲(敵に気付かれ反撃された時の攻撃方法で、水平爆撃・雷撃・急降下爆撃の順序が少し異なっていた)という合図になっていたため、一部の攻撃が強襲になり、隊列がやや乱れたものの、攻撃は大成功。

彼の乗っていたのは97式艦上攻撃機で、水平爆撃も、雷撃もできる単発・低翼・三人乗りのもので、彼は水平爆撃に参加し、1回目うまく標的を捉えられず、Uターンして2回目に爆弾を投下しています。

アメリカ軍の反撃も早く、彼はこの爆撃の際被弾し、操縦桿が切れかかったまま、そのあと3時間もオアフ島の上を飛び続け、戦果を確認し、次の攻撃目標の石油タンク・海軍工廠の位置などを調べて、迷子になりかけたゼロ戦2機をお供に帰艦しています。
ガソリンタンクはほとんどゼロ、操縦桿も切れかかっていて整備士がよくこれで飛べた、と驚いたそうです。

彼も第2次の攻撃にすぐ出発するつもりだったようですが、山口多門などの督促も聞かず、南雲司令官が帰国の指示を出したことはご存知でしょう。
この弱気が、あとあと、ミッドウエイを初め、連合艦隊の壊滅につながります。

南雲はミッドウエイでやられ、サイパンで追い詰められて自決し、その生涯を終えますが、淵田の生涯と比べると、可哀そうな気もします。

日本に帰ってから、佐官級としては異例の天皇への直接報告がなされ、天皇は予定時間を大幅に過ぎても戦果を聞かれたそうです。
そして、最後に「お聞きになりたいことがまだありますか?」とお尋ねしたら、「この写真を皇后に見せたいから、持って行っていいか?」と攻撃隊の撮影した写真をそのまま持ち帰られたとのこと。

先日、この説明会で使われた真珠湾の模型がたしかアメリカで競売に付され、異例の価格がついたというニュースを新聞で読んだことがありますが、まだこの模型が残っているとは、驚きです。
誰が持ち帰り、保管していたのでしょうか?
淵田自身も今頃、あの世で驚いていることでしょう。

パソコンで原稿を打つのは、ワープロに比べると疲れます。
今日はこの辺で。

Monday, February 18, 2008

淵田美津雄

2008/02/17

「淵田美津雄」

阿部基冶

淵田の名前はご存じでしょう、真珠湾攻撃隊の隊長で「トラ・トラ・トラ」を発信した海軍中佐です。

彼が生前書いた自叙伝が発見され、ある作家がその7割ぐらいを編集したものを読みました。

なかなか興味深い話が出てきます。その一端を紹介します。 彼が戦後キリスト教の伝道師になったことは有名ですが、そのきっかけになったのは、1942年4月18日に日本を初空襲したデウリトッル爆撃隊の16号機の爆撃手がやはり、キリスト教の伝道のため、日本にきてパンフを配りそれを淵田が読んだことに始まったそうです。

同じ飛行士同士の邂逅だったのです。

淵田は昭和20年代からアメリカに渡り、伝道師として働いたので、相当な非難と差別にあったようですが、彼はジャップと呼ばれ続けながら、それを許し続けたそうです。 イエローは当たり前の時代です。

ただ、驚いたのは 彼が戦後アメリカ軍に呼ばれていろいろ事情聴取されていた時に、食堂に行ったら 黒人兵に呼ばれ レストランの裏で、多数の黒人兵から 「よく真珠湾をやってくれた、 おれたちはあれですっきりした」と散々歓待されたことがあったそうです。

アメリカの黒人差別がひどいことは聞いていましたが、真珠湾攻撃まで黒人が喜んだ話を読んで、その深さを知りました。

彼がジャップと呼ばれようが平気だった裏には、こうした事実を体験したことがあるのでしょう。

彼はアメリカで アイゼンハウアー・ニクソン・トルーマン・デウリトル・ニミッツ元帥・スプルァンス第7、ターナー第5艦隊司令長官など有名人とも面談していますが、トルーマンが 「真珠湾は両者有罪だ」といった話が出てきます。

GUILTYという言葉が使われているところを見ると、トルーマンは ルーズベルトが日本を開戦に追いやったこと、真珠湾攻撃の暗号通信文を解読していて知っていたことなどの裏を知っての発言と思われます。

これはかなり重要な発言ですが、今まで表に出てきたことはありません。 ハワイの話で小生が以前書いた、ゼロ戦・西開地一等飛行兵曹のニイハフ島不時着の件は、淵田は攻撃隊長でありながら 全く知らなかったそうです。

伝道でまわるうちに、日系二世の人から手紙でこのことを知らされ、わざわざニイハフ島まで赴いて頭を下げた話が出てきます。 伝道師としての淵田の行動は異常とも思える過密スケジュールで、それが彼の寿命を縮めたことは明らかです。

小生信仰心は薄く、とても彼のマネはできませんが、広島・長崎の原爆跡を、大本営航空参謀として視察した彼が、洗礼を受けたことは十分理解できます。 こうした本を読むと、人間の一生は本当に死ぬまで判らぬとつくづく思います。

今の福田を初めとした情けない政治家どもに読ませてやりたい本でした。 

阿部基冶