まだテレビもなく、映画が黄金時代だった昭和24年(1949)の7月、石坂洋次郎原作の「青い山脈」という映画が封切られ、空前の大ヒットを収めました。
そして、このとき杉葉子という新人女優が、小説の主人公「寺沢新子」の役で登場し、話題を集めました。
当時、都立新宿高校1年生だった私は映画研究部に所属していて、たまたま部長をされていた福家という先生に
「今度封切られる青い山脈に出ている杉葉子さんは、凄い大型新人みたいですね」
と話していたら
「それじゃ、杉葉子を呼んでやろうか」
と先生が言い出したのです。
そんなこと無理ですよ、というと
「ちょっと知ってるんだ」
と言われ、話はいったんそこで終ったのですが、しばらくして
「おい、杉葉子が来るからね、学校で映画の話でもさせよう」
と言いだされたのです。
よくよく話を聞いてみると、大東亜戦争中、上海におられた福家先生が勤めておられた女学校で、杉さんを教えられたのだそうです。
そんな関係で杉さんが学校に見えて話をし、青い山脈の試写会をすることが決まったのは、映画が封切られる少し前、6月あるいは7月のことだったと思います。
テレビのない時代の映画女優さんといったら、今のタレントなど足元にも及ばない凄い人気でした。
その杉葉子さんが来るというのですから、大騒ぎになりました。
そして当日、福家先生に
「お前、校門のところまで杉さんの出迎えに出ろ」
と言われたのです。
新宿高校は新宿御苑のとなりで、現JRの新宿駅南口の坂を下った交差点の先にあります。
京王線がまだ路面電車で、新宿駅南口からの坂を下ってきて、その交差点の先に終着駅があった時代ですから、先生も学校がわかりにくいと思ったのでしょう。
私が緊張して門の前で新宿駅の方を見ていると、あの南口からの斜面の右側の歩道を、カツカツと足音も軽やかに杉さんが下りてこられたのを覚えています。
ただ、そのあと、杉さんに何を話し、どうやって応接室まで案内したのかは全く覚えていません。
校舎の窓からみんなが首を出し、奇声を上げたりしていたのをかすかに覚えているくらいです。
私の青春が輝いた一コマでした。
と、こんな話を2年ほど前にヴァンクーバーの友人の「カナダこのごろ」というメルマガに投稿したところ、なんとそのメールを見た読者の一人がアメリカのロス・アンジェルスに住む杉葉子さんに見せてくれたのです。
そして、驚いたことに杉さんから
「新宿高校に行ったのは覚えています、誰かが案内して下さったけど……」
という返事が来たのです。
それからしばらくして、杉さんのサイン入りの写真などが送られてきました。また、杉さんと直接、メールの交換も始まりました。
私はあまりのことに、青春の血がいっぺんに戻ってきたような感激を覚えました。
そして今年になって、杉さんが来日されるとのメールが来たので、厚かましくも是非、お目にかかりたいというお願いのメールを打ったのです。
そして、あっさりと杉さんはその願いを受け入れてくれました。
あの高校1年生から58年振りの今年6月、都内某所で私と高校同期の親友、I君、F君の三人で杉さんと会食をすることにしました。
当日は私も朝から緊張して30分も早く決めた場所に行ったら、なんと杉さんはもう見えていました。
「遅刻したくないから早く出たのよ」
と杉さんは軽く言われましたが、その言動から杉さんの人柄が推察できました。
F君が所用で欠席となり、I君と二人で、杉さんが戦時中中国にいて引き揚げられた話、ロスのホテル・ニューオオタニに勤められ、そこで日本文化の紹介をされていた話、そして最近の文化庁の文化交流使として日本の文化をアメリカに紹介する話ーそれは地道な草の根的な仕事ですがーそしてもちろん映画の話に盛り上がり、気がついたら予定の2時間はとっくに過ぎていました。
あの「青い山脈」の寺沢新子がそのまま年をとられたように、明るく、快活で、飾り気のない態度で話されるのに、私は58年前を思い出し、感無量でした。
杉さんは自分でも夢子だと言われていましたが、目標と夢に向かって前進されている姿に、私は感動すら覚えました。
当日の何か記念ということで三人で色紙に名前をサインし、日付けを入れたものを三枚書き、各々が1枚ずつ持つことにしました。
私にとっては、何物にも替えがたい宝物です。
杉さんにとっては1ファンとの会合だったでしょうが、私にとっては青春の一コマを再現させていただいた素晴らしい時間でした。
両者にとって共通の恩師、福家先生が、天国からニコニコしながら
「こんな会合をもてるなんて、おれも信じられなかったよ」
とあの大きな声で話しかけられた思いがしました。
パソコンとメールが生み出した、現代のおとぎ話でした。
阿部基冶 (07/06/30) abemotoharu.blogspot.com