Friday, February 22, 2008

情けない世の中

平成20年2月21日

情けない世の中‏

阿部基冶

拙文をメルマガに載せていただき、有難うございます。載ると思っていなかったので、載ってからあわてて、その2を書きました。そうしないと、淵田の戦後の改心した、もっともらしい、良さそうなところだけ書いた形になってしまうからです。

小生は戦前に生まれた一員として、少しは戦争を空襲・機銃射撃・勤労動員や2度の戦災、物資特に食糧難という形で体験したので、後世にというか若い人に戦争の悲惨さ、政治家や軍人の独断・ひどさなどを伝える義務があると思い、明治から現代への近代史の本を、実録を含め読み、時々貴兄にも書かせてもらっていますが、小生なりに、日本人はひどくなってきた、特に、昭和になってからはひどいと思っています。

特攻隊を送り出して生き延びた将軍も、一人や二人ではありません。インパールで10万人を無駄死にさせた牟田口蓮也、フィリッピンで特攻空軍を残して台湾に逃げた富永恭次、ともに陸軍のダメ将軍は、やはり戦後謝りもせずに生き延びています。

東條の自殺未遂も噴飯ものでした。
捕虜になるなと教えた本人が、自殺の方法も知らなかった!!

当時中学生の我々ですら、銃口を口にくわえれれば完全に死ねると知っていました。

海軍も特攻の発案者の一人、大西滝次郎は自決したからまだしも、同じ発案者の宇垣纏は終戦の詔勅の下りた後、8月15日の午後、部下30人近くを連れて最後の特攻で沖縄に突っ込んだのは有名ですから、ご存知でしょう。

航空出身なのですから、自分ひとりで操縦して行けばいいものを、3人乗りの天山艦攻を使ったため、死ななくてもいい部下を最後まで殺しました。

途中で機体の不良で不時着して助かったものが何人かいたのと、宇垣を初め、米軍に突っ込んだのが一人もいなかったのが、不幸中の幸い。もし、これで被害が出ていたら大問題になっていた可能性があります。

嶋田繁太郎にしても、開戦時の海軍大臣の責任を考えたら引込むべきなのにおめおめと生き延び、海上自衛隊に祝辞を述べに行ったというのですから、呆れるほかありません。

小生の調べでは、特攻機は海軍・1,298、陸軍1,185、計2,483
体当たり機数 244 至近弾となった機数 166 被害を与えた艦船数 358  奏功率 16.5%  という惨憺たる結果です。

シナ事変から大東亜戦争までの310万人という死者(軍人230万民間80万)に比べたら、人数は数千人ですが、彼らは「必らず死ね」だったのです。

数々の本や、身内で戦地からなんとか帰国できたものから聞くと、戦場では食料と水の不足から、仲間の日本兵を殺して水や食料を奪うものが多く、敵兵より味方に気を使ったと言っています。

陸軍の戦死者の70%は、飢えからと言われていますから、この話は嘘とは思われません。

「輜重兵卒が兵隊ならば、ちょうちょうトンボも鳥のうち」と兵站任務をさげすんだ陸軍の結果が、これです。

関東大震災の時、取材にきた外国の特派員が、一部では騒動があったものの、物資の配給などで日本人が整然と並び、奪い合いが少ないことに驚いたことを報道していますが、昭和の軍人はひどかったようで、日常、部下や新兵をリンチするのは陸・海軍とも当たり前。

捕虜収容所でも将校が威張り散らしたり、英語のできる者を生意気だとリンチしたり、情けない話がたくさん出てきます。

ソ連収容所での仲間を告げ口して売った話は、戦後、裁判にまでなりました(暁に祈るほか)

我々が戦中・戦後経験したことでも、軍人・警察など権力者のひどい威張り方、疎開者へのいじめ、一部の食料の独占など、日本人のモラル、倫理感の低下はひどく、それが最近でも政治家、官僚、そして庶民にまで依然として残り、低下しつづけています。

汚職は当たり前、企業でも表示の嘘、食べ物偽装まで大盛りです。生命軽視は特に最近多くなりました。

今回起きた、イージス艦と漁船の衝突一つ見ても、昔の、そこのけ・そこのけ の軍隊意識が残っている気がします。

こんな世の中なんとかしたくても、我々には1票を投じる以外、意思表示の方法がありません。

政治家だけでなく、官僚が日本という国を忘れ、自己中心の動きをするのですから、庶民はたまりません。

アメリカの次期大統領も、誰が勝つにせよ、戦争嫌いであることを願わずにはいられません。

今日は半分、愚痴になってしまいましたが、歴史から学びとることはたくさんあると思います。

もう、春もすぐに来るでしょうが、本当に暖かい春が来てほしいですね。
              
***********

明治維新のころの世界の中で孤立し、取り残されるという不安、国民全員が頑張らねばという一体感など、日清・日露・第1次大戦の戦勝で薄まり、消え去り、気が付けば陸軍が政治を支配し、政治家も5・15以来政党政治を忘れ、日本全体がおかしくなっていきました。

戦後の平和は、また平和ボケからカネ・カネの若者ばかりを作り、人を殺すことにもためらいが無くなりつつあります。

メルマガもそろそろ、3月末くらいで終わりにしたら如何? 
これだけ長い間、たくさんの人に読まれ、愛されたのですから、本望でしょう。
カナダに関心を持つ日本人は多かったのですから、ずいぶん、人助けをしたはずです。

阿部基冶

Wednesday, February 20, 2008

淵田美津雄2

「淵田美津雄 2」‏

2008年2月18日

寒さは今週末になると少し和らぐとの予報に なんとなくホッとしています。もう少しの辛抱かな? なにしろ、寒さは苦手です。 前回は淵田の伝道師の話を主に書きましたが、肝腎のハワイ奇襲攻撃の時の彼の話を書きましょう。
アメリカでも「ハワイを攻撃するときどんな気持ちだったか?」というのが一番多く彼に浴びせられた質問だったようですが、彼は昂然と「男に生まれて良かった! 海軍航空隊に入って総攻撃の隊長に選ばれたことは、男子の本懐ここにありと思った」と言っています。
もちろん彼を含め全日本海軍は、開戦通告が遅れていて、ダマシ攻撃になっていたことは全く知らなかったのですから、エトロフ島のヒトカップ湾を出てから隠密行動でハワイに近付き、奇襲攻撃になったことを喜ばないはずはありません。
360機の攻撃隊の隊長になり、世界でも稀な最大のイベントに参加できたのですから、当然でしょう。
トラ・トラ・トラの攻撃機からの電信は、旗艦の長門だけでなく、日本の海軍省にまで届いたそうですから、これも信じられない話。微弱な電波が良く届いたものです。

奇襲攻撃の印の信号弾を2回打ったのも本当で、1回目に打ったとき、前方上空を飛ぶ護衛の戦闘機が気付かなかったため、2度打ったそうです。

1回は奇襲攻撃、2回打ったら強襲(敵に気付かれ反撃された時の攻撃方法で、水平爆撃・雷撃・急降下爆撃の順序が少し異なっていた)という合図になっていたため、一部の攻撃が強襲になり、隊列がやや乱れたものの、攻撃は大成功。
彼の乗っていたのは97式艦上攻撃機で、水平爆撃も、雷撃もできる単発・低翼・三人乗りのもので、彼は水平爆撃に参加し、1回目うまく標的を捉えられず、Uターンして2回目に爆弾を投下しています。

アメリカ軍の反撃も早く、彼はこの爆撃の際被弾し、操縦桿が切れかかったまま、そのあと3時間もオアフ島の上を飛び続け、戦果を確認し、次の攻撃目標の石油タンク・海軍工廠の位置などを調べて、迷子になりかけたゼロ戦2機をお供に帰艦しています。ガソリンタンクはほとんどゼロ、操縦桿も切れかかっていて整備士がよくこれで飛べた、と驚いたそうです。

彼も第2次の攻撃にすぐ出発するつもりだったようですが、山口多門などの督促も聞かず、南雲司令官が帰国の指示を出したことはご存知でしょう。

この弱気が、あとあと、ミッドウエイを初め、連合艦隊の壊滅につながります。

南雲はミッドウエイでやられ、サイパンで追い詰められて自決し、その生涯を終えますが、淵田の生涯と比べると、可哀そうな気もします。

日本に帰ってから、佐官級としては異例の天皇への直接報告がなされ、天皇は予定時間を大幅に過ぎても戦果を聞かれたそうです。
そして、最後に「お聞きになりたいことがまだありますか?」とお尋ねしたら、「この写真を皇后に見せたいから、持って行っていいか?」と攻撃隊の撮影した写真をそのまま持ち帰られたとのこと。

先日、この説明会で使われた真珠湾の模型がたしかアメリカで競売に付され、異例の価格がついたというニュースを新聞で読んだことがありますが、まだこの模型が残っているとは、驚きです。
誰が持ち帰り、保管していたのでしょうか?
淵田自身も今頃、あの世で驚いていることでしょう。

パソコンで原稿を打つのは、ワープロに比べると疲れます。
今日はこの辺で。

阿部基冶

淵田美津雄2 2008/02/18 [o]

「淵田美津雄 2」‏

2008年2月18日

寒さは今週末になると少し和らぐとの予報に なんとなくホッとしています。
もう少しの辛抱かな? 
なにしろ、寒さは苦手です。

前回は淵田の伝道師の話を主に書きましたが、肝腎のハワイ奇襲攻撃の時の彼の話を書きましょう。

アメリカでも「ハワイを攻撃するときどんな気持ちだったか?」というのが一番多く彼に浴びせられた質問だったようですが、彼は昂然と「男に生まれて良かった! 海軍航空隊に入って総攻撃の隊長に選ばれたことは、男子の本懐ここにありと思った」と言っています。

もちろん彼を含め全日本海軍は、開戦通告が遅れていて、ダマシ攻撃になっていたことは全く知らなかったのですから、エトロフ島のヒトカップ湾を出てから隠密行動でハワイに近付き、奇襲攻撃になったことを喜ばないはずはありません。

360機の攻撃隊の隊長になり、世界でも稀な最大のイベントに参加できたのですから、当然でしょう。
トラ・トラ・トラの攻撃機からの電信は、旗艦の長門だけでなく、日本の海軍省にまで届いたそうですから、これも信じられない話。
微弱な電波が良く届いたものです。

奇襲攻撃の印の信号弾を2回打ったのも本当で、1回目に打ったとき、前方上空を飛ぶ護衛の戦闘機が気付かなかったため、2度打ったそうです。

1回は奇襲攻撃、2回打ったら強襲(敵に気付かれ反撃された時の攻撃方法で、水平爆撃・雷撃・急降下爆撃の順序が少し異なっていた)という合図になっていたため、一部の攻撃が強襲になり、隊列がやや乱れたものの、攻撃は大成功。

彼の乗っていたのは97式艦上攻撃機で、水平爆撃も、雷撃もできる単発・低翼・三人乗りのもので、彼は水平爆撃に参加し、1回目うまく標的を捉えられず、Uターンして2回目に爆弾を投下しています。

アメリカ軍の反撃も早く、彼はこの爆撃の際被弾し、操縦桿が切れかかったまま、そのあと3時間もオアフ島の上を飛び続け、戦果を確認し、次の攻撃目標の石油タンク・海軍工廠の位置などを調べて、迷子になりかけたゼロ戦2機をお供に帰艦しています。
ガソリンタンクはほとんどゼロ、操縦桿も切れかかっていて整備士がよくこれで飛べた、と驚いたそうです。

彼も第2次の攻撃にすぐ出発するつもりだったようですが、山口多門などの督促も聞かず、南雲司令官が帰国の指示を出したことはご存知でしょう。
この弱気が、あとあと、ミッドウエイを初め、連合艦隊の壊滅につながります。

南雲はミッドウエイでやられ、サイパンで追い詰められて自決し、その生涯を終えますが、淵田の生涯と比べると、可哀そうな気もします。

日本に帰ってから、佐官級としては異例の天皇への直接報告がなされ、天皇は予定時間を大幅に過ぎても戦果を聞かれたそうです。
そして、最後に「お聞きになりたいことがまだありますか?」とお尋ねしたら、「この写真を皇后に見せたいから、持って行っていいか?」と攻撃隊の撮影した写真をそのまま持ち帰られたとのこと。

先日、この説明会で使われた真珠湾の模型がたしかアメリカで競売に付され、異例の価格がついたというニュースを新聞で読んだことがありますが、まだこの模型が残っているとは、驚きです。
誰が持ち帰り、保管していたのでしょうか?
淵田自身も今頃、あの世で驚いていることでしょう。

パソコンで原稿を打つのは、ワープロに比べると疲れます。
今日はこの辺で。

Monday, February 18, 2008

淵田美津雄

2008/02/17

「淵田美津雄」

阿部基冶

淵田の名前はご存じでしょう、真珠湾攻撃隊の隊長で「トラ・トラ・トラ」を発信した海軍中佐です。

彼が生前書いた自叙伝が発見され、ある作家がその7割ぐらいを編集したものを読みました。

なかなか興味深い話が出てきます。その一端を紹介します。 彼が戦後キリスト教の伝道師になったことは有名ですが、そのきっかけになったのは、1942年4月18日に日本を初空襲したデウリトッル爆撃隊の16号機の爆撃手がやはり、キリスト教の伝道のため、日本にきてパンフを配りそれを淵田が読んだことに始まったそうです。

同じ飛行士同士の邂逅だったのです。

淵田は昭和20年代からアメリカに渡り、伝道師として働いたので、相当な非難と差別にあったようですが、彼はジャップと呼ばれ続けながら、それを許し続けたそうです。 イエローは当たり前の時代です。

ただ、驚いたのは 彼が戦後アメリカ軍に呼ばれていろいろ事情聴取されていた時に、食堂に行ったら 黒人兵に呼ばれ レストランの裏で、多数の黒人兵から 「よく真珠湾をやってくれた、 おれたちはあれですっきりした」と散々歓待されたことがあったそうです。

アメリカの黒人差別がひどいことは聞いていましたが、真珠湾攻撃まで黒人が喜んだ話を読んで、その深さを知りました。

彼がジャップと呼ばれようが平気だった裏には、こうした事実を体験したことがあるのでしょう。

彼はアメリカで アイゼンハウアー・ニクソン・トルーマン・デウリトル・ニミッツ元帥・スプルァンス第7、ターナー第5艦隊司令長官など有名人とも面談していますが、トルーマンが 「真珠湾は両者有罪だ」といった話が出てきます。

GUILTYという言葉が使われているところを見ると、トルーマンは ルーズベルトが日本を開戦に追いやったこと、真珠湾攻撃の暗号通信文を解読していて知っていたことなどの裏を知っての発言と思われます。

これはかなり重要な発言ですが、今まで表に出てきたことはありません。 ハワイの話で小生が以前書いた、ゼロ戦・西開地一等飛行兵曹のニイハフ島不時着の件は、淵田は攻撃隊長でありながら 全く知らなかったそうです。

伝道でまわるうちに、日系二世の人から手紙でこのことを知らされ、わざわざニイハフ島まで赴いて頭を下げた話が出てきます。 伝道師としての淵田の行動は異常とも思える過密スケジュールで、それが彼の寿命を縮めたことは明らかです。

小生信仰心は薄く、とても彼のマネはできませんが、広島・長崎の原爆跡を、大本営航空参謀として視察した彼が、洗礼を受けたことは十分理解できます。 こうした本を読むと、人間の一生は本当に死ぬまで判らぬとつくづく思います。

今の福田を初めとした情けない政治家どもに読ませてやりたい本でした。 

阿部基冶

Monday, November 12, 2007

ハワイのこと(続き)(2007/11/11)

ハワイのこと、貴兄への私信のつもりが載せていただき恐縮、もう少しきちんと調べて書いた方が良かったかも、
というのは、人名などなぜかハワイに行ったら急に頭の中に浮かんできたので、正確かどうかわからなかったからです。

吉川大尉も少尉のような気がしますし、西開地という名前も変わった名前なので覚えていましたが、階級はよく覚えていません。

吉川が森村正という偽名を使い、一等書記官との触れ込みだったのに、アメリカがこんな若い一等書記官はいるはずがないと、最初から疑ってかかったという話は覚えています。

暗号解読は、以前井上氏が太平洋戦争はルーズベルトが起こしたと 「カナダこのごろ」に書かれたように、彼が暗号解読から、日本に戦争を仕向けるように動いたことは、スティネットの「真珠湾の真実」という本を読めば明らかです。

ルーズベルトは大統領になるときに、国民を戦地に送らないと約束したため、イギリスから督促を受けても第二次世界大戦に参加できず、その突破口として、当時日本と戦争状態だった支那の蒋介石を援助しつつ、日本の矛先をアメリカに向けるようにし、真珠湾を攻撃されるのも分かっていて、キンメル米太平洋艦隊司令長官には知らせなかったのです。

キンメルは責任を問われて職を追われ、不遇のうちに亡くなり、家族が名誉回復を訴えて それがアメリカの議会で承認されたのは、つい10年くらい前だと思います。

「リメンバーパールハーバー」 はルーズベルトの一世一代の大芝居、それにアメリカ全国民は乗せられたわけです。

彼は人種差別もかなりひどく、在米日本人が戦前からさんざんいじめられたことは、貴兄もご存じでしょう。
法律まで作って日本人を迫害しました。

ルーズベルトは急逝したため、なにも本人の自白証拠はありませんが、残った文書からは彼の悪行は明らかです。

最近、佐々木譲という作家の本を読みましたが、彼の第2次大戦3部作に 「エトロフ発緊急電」 というのがあります。

アメリカから送り込まれた日系二世のスパイが、1941年11月エトロフ島に停泊していた真珠湾攻撃艦隊の動静を 暗号電報で知らせた話です。

これでも真珠湾攻撃はアメリカでは知っていたはずなのに、何の対策もとられていません。

佐々木氏の あとの2冊は 「ベルリン飛行指令」 「ストックホルムの密使」 です。

前者は、ロンドン爆撃が戦闘機の援護がないためうまくいかないのを嘆いたヒットラーが、日本のゼロ戦の技術を利用しようと ゼロ戦をベルリンに送らせた話です。

1940年の秋に2機のゼロ戦が東南アジア・イラク経由でベルリンまで飛ぶのですが、1機は途中で撃墜され、1機だけベルリンに着陸したのです。

結局、ドイツはゼロ戦は使わなかったのですが、ヒットラーの意向でこの三菱重工との技術提携に関する文書は全部破棄されたため、戦後かなり後までこのことは知られなかったようです。

ベルリンにいた日本のパイロットは その後、ドイツ空軍の教官となり、ベルリンの戦闘で戦闘機のパイロットとして出撃、行方不明になっています。

「ストックホルム」 は 在欧日本人外交官が、1945年、ソ連の日本開戦、アメリカの原爆開発の情報をつかみ、それを日本の外務省に打電するのですが、さっぱり反応がないため、ある日本人に依頼してこの情報を日本まで持ち運ぶことを依頼するのです。

8月の原爆の投下、ソ連の開戦に間に合うタイミングで この密使はシベリヤ経由日本に到着するのですが、例によって、日本はこの情報を無視。

ソ連を仲介する終戦工作を ソ連が中立条約を一方的に破棄して攻め込んでくるまで続けたという お粗末。

こうした本を読んでいると、一つの事実の裏に思いがけないことが潜んでいるので、びっくりします。

ゼロ戦がドイツに提供された話など、ゼロ戦の本を何冊も読んだ小生も全く知りませんでした。

今日は秋日和、また表に出てスポーツクラブで運動します。
歩くより プールで30分泳げば 数倍のカロリーが消費できるので、最近はマシンとプールの併用で体重増防止に努めています。

晩酌のビールが止められないので、運動は欠かせません。

では、また。

阿部基冶

Friday, November 09, 2007

ハワイの印象(続き)(2007/11/08)

(2007/11/08)

今日も、その続きです。

ハワイといえばいろいろな本を読んでいますが、一つは1941年にスパイとしてハワイの日本国公館に送り込まれた吉川という海兵卒の海軍大尉の話です。

彼は真珠湾の米艦隊の動向を調べ、公館から毎日のように軍艦の種類、隻数、停泊位置などを報告し、それは12月7日の寸前まで続きました。

従って、南雲艦隊は 空母が真珠湾にいないことは知っていたわけです。

あの「ハワイ・マレー沖海戦」の映画でも いないことを知っていたようなセリフがあったと思いましたが、あれは偵察機の報告になっていたはずです。
実際に艦に搭載されていた水上偵察機は飛んでいます。

この吉川大尉の苦心の報告も、彼自身が公館館員として入国したこともアメリカは暗号解読で全部知っていた、のが事実です。

なんとも情けない話で、吉川に尾行がつき、電話は全部盗聴されていたというのですから、情けないを通り越して哀れになります。

暗号解読は 1940年にドイツ駐在のの大島大使から、ドイツの情報として日本の外交暗号が解読されているとの話が入っているのに、日本では全く無視したのです。

日本の暗号は全く解読不可能と言われるものだったので、安心しきっていたようですが、戦後、この暗号を作った当人が米軍に 「どうして、あの暗号を解読できたのだ?」 と聞いたところ、黙って人指し指の先を曲げたそうです。

他の本で読んだ記憶があるのですが、この暗号機を作っていた世田谷の建物で、人が侵入した形跡があるのに気がついたが、被害がないと思われたのでそのままになった、との話を読みました。

アメリカのスパイは戦前からかなり多く日本に来ていましたから、その一人にやられたのでしょう。

どうも日本人はこうした情報合戦が苦手なのか、山本五十六の乗機が撃墜されても、暗号は変わらず、遂に戦争終了まで全部話が筒抜けだったのですから、勝てるわけがありません。

それとはハワイのもう一つの話。

ハワイの一番端に、ニイハオ島という島がありますが、そこは12月7日に攻撃した日本の航空機が被害を受けた時の不時着場になっていました。

ここに降りれば、潜水艦が迎えに行くことになっていたのです。

そして、現実に西開地というパイロットのゼロ戦が不時着し、日系二世の人が彼を助けるのですが、なんと潜水艦は 「日本軍人は不時着より自爆するのが普通」 と考え、迎えに行かなかったのです。

西開地飛曹は 結局、島民に囲まれ、ゼロ戦に火を放って二世とともに自決したのです。

この話は、この二世の奥さんが戦後、収容所から解放されてきてから 話を明らかにしたので、かなり知られています。

彼女は、夫が戦争に協力したと看做され、彼女も犯罪人扱いだったそうです。
ニイハオ島は個人の持ちものとかで、7日当日もラジオもなくて 日本の攻撃も知らず、現在も観光で訪れることもできない島です。

今度は、別の話にしましょう。 

阿部基冶
abemotoharu.blogspot.com

ハワイの印象 (2007/11/07)

昨日ハワイから戻りました。

往きの6.5時間は、機中泊で夕朝と2回も食事が出るのでほとんど眠れず、せっかくのビジネスクラスのシートも無駄でした。、

朝7時過ぎにあのヒッカム飛行場につながるワイキキ国際空港に向け、高度が下がるときは、やはり「トラ、トラ、トラ」を思い出しました。

結論から言えば、もう、パールハーバーで頭を下げてきたので、ハワイは二度は行かないでしょう。

ワイキキビーチはホームレスがいっぱい、泳ぐ気などまったく起きず、しかも流行なのか刺青を手、足、背中、胴などほとんど全身にわたりしているものが多く、ペイントかもしれませんが、入れ墨は犯罪人の印と思っている小生には嫌悪感だけ。空港からホテルに行くまでの間に嫌になりました。

パール・ハーバーの海は静かで、アリゾナ記念館をフォード島に望んで、あの66年前の攻撃で命を落とした米そして日の人々に頭を下げ、やっと肩の荷が下りました。

小生がアリゾナ資料館の前で頭を下げていたら、ガイドの日系二世らしい年寄りが「何でだ?」と聞くので66年間気になって今までハワイに来れなかったと言うと、「日本人は律義な人が多い」と笑って言っていました。

そして、「アメリカ人はもう忘れているよ、なにしろ、戦争好きだから……」と。

「それよりも日本人がハワイへ来なくなったら、ここは潰れちゃうよ、ほとんど全部、日本人の落とすお金で生活がなりたっているのだから…」

肩の荷は下りても、複雑な心境でした。

あの、在米大使館の井口参事官・奥村書記官の仕事のサボりから事件は起きました。

野村駐米大使は真珠湾攻撃を何も知らぬまま、1時間も指定時刻を遅れて交渉打ち切り(開戦)の文書を持って行ったのです。

アメリカの大使館で一本指でも英文タイプを打てたのは奥村一人だったというのですから、あきれた外交官です。 タイプの勉強すらせず、高給を取る。まさに役人の鑑ですね。

なぜか、戦後もこの文書手渡し遅れの調査は吉田茂外務大臣は潰しにかかり、外務省を去っていた井口・奥村を呼び寄せ、次官に据え、のちに井口はカナダ・アメリカ大使に昇進、奥村もスイス大使に昇進したのです。
外務省のメンツを第一に考えたとしか思えません。

天皇とマッカーサーが初めて会ったとき、天皇は外務省から言われてか「東條がやった」と説明したそうです。そしてそのときの通訳がなんと奥村です。

自分のミスを東條の所為、と翻訳するときに、良心が痛まなかったのかと不思議になります。

このお陰で、どれだけ日本人が海外を含め肩身の狭い思いをしたことか。
9.11のときも「真珠湾の再来」と言われたのに、日本政府は何も言わず。
外務省が真相を発表したのは、なんと1994年のことです。
戦後、50年たってからです。
ALOHAさんのいう害務省です。

小生を含め、この一事を負担に考えている日本人は少なくないと思います。
小生は頭を下げてケリをつけましたが、律義な日本人はまだ多いと思います。

あと、ハワイで印象に残ったのはモアナルア・ガーデンの「この木なんの木気になる木」です。
日立のコマーシャルというよりも、小林亜星の曲で有名になりましたが、これをコマーシャルに使う発想をした人を褒めたいと思います。
良い木でした。

日本より暖かく住みよい街かもしれませんが、単なる観光地でリゾート地ではないというのが、小生の感想です。

66年間の重荷も下り、次はどこへ行くか計画中、意外と早くまた出かけるかもしれません。
なにしろ、身体の衰えを痛感し、動ける間に旅をしようとおもいだしたからです。 
歳はやはり厳しい、それだけに焦ります。
 

Wednesday, August 22, 2007

暑中お見舞い (2007/08/06)[o]

中谷 剛 様

暑中お見舞い申し上げます。

早いもので、アウシュビッツへ伺ってから1年過ぎました。
今年もポーランドは猛暑なのでしょうか? 去年は、ワルシャワの空港からバスで猛暑の中、5時間もかかってトルニのホテルに入ったら、エアコンに冷房がなく、部屋のドアを開け、冷蔵庫の中のジュースのペットボトルを枕にやっと寝たことを思い出します。
ペットボトルを使ったのは良いアイデアと、みんなに褒められましたが、3日目のクラクフのホテルでクーラー付エアコンがあった時は、ほっとしました。ワルシャワも大丈夫でした。
寒いポーランドでクーラーが必要になるのは、よほどのことなのでしょうね。
それでも、収容されていたユダヤ人に比べたら恵まれていたはず、これが現実のことなら収容者のかなりの方が熱中症で倒れたことと思います。
中谷さんが汗を拭き拭き、熱心にガイドをされていた姿を思い出します。

今年も、広島・長崎の原爆の日がきましたが、アメリカは相変わらず無視のようです。
原爆は戦争終結を早めたとする説は、完全に全米中に流布されており、学校でもそう
教えているのですから、アメリカが原爆投下を謝罪することはあり得ないでしょう。

ルーズベルトはかなり人種差別がひどかったようで、それを継いだトルーマンがゴー
サインを出したのも、うなづけます。
対独相手なら、投下しなかったという説は一般的です。
ルーズベルトは大東亜戦争だけをとらえたら、戦争の立案・実行者です。
もし機会があったら、ロバート・B・スティネット が書いた「真珠湾の真実 ルーズベルト欺瞞の日々」(文芸春秋社)をお読みください。訳・荒井稔・丸田共美
原題は、Day of Deceit The truth about FDR and Pearl Harbour です。FDRはルーズベルトの略です。
これを読むと、日本がアメリカの策略で大東亜戦争を引き起こさざるを得ない状態に追い込まれていくのが、よくわかります。
暗号を全部解読し、知らん顔をして真珠湾を攻撃させるのには、ルーズベルトの凄さというかひどさを痛感させられます。第2のヒットラーに近い姿です。自国民を裏切るのです、自分の策略成功のために……。
なお、当時のアメリカの外交文書は、未だに全部は公開されていません。
公開された部分から、この本は書かれています。

私は満州事変を含んだ最初の日本の満州侵攻が、大東亜戦争の始まりとみているので、
ルーズベルトが全部の責任を負うのではなく、やはり、関東軍を主体とする日本は戦争を惹き起こしたとみていますが、これが原爆を肯定させる理由になる筈がありません。

話が大分広がってしまいました。
暑い中、大変なお仕事ですが、人間を自ら見つめなおすという大事な、価値のあるお仕事をぜひ続けられるよう望んでいます。
では、くれぐれも熱中症にならぬよう、水分と木陰に留意してご活躍ください。
         2007.8.7         
阿部基治

Thursday, July 05, 2007

お手紙拝受 (2007/07/04)

(阿部さんが杉葉子さんに送った手紙のコピーです)

杉 葉子様

ご丁寧な御挨拶状を、本日、拝受しました。

切手に、Henry Fonda のものがさりげなく貼られていて、杉さんの気配りに感謝しております。

その後、杉さんの来校日などの情報が寄せられ、見えたのは映画の封切り前ではなく 昭和25年4月10日だったことが分りました。

もう、半世紀以上前のことで私の記憶も薄くなっていたのかもしれません。

更に驚いたのは、今井監督が数日後に来校されてやはり講演をされ、半年後には脚本の井手俊郎さんも学校に見えていました。

みんな、映画研究部の主催です。 当時の映研はすごい力を持っていたようです。 福家先生のお陰でしょうか……。

私は杉さんの見えたことしか記憶がなく、申し訳ないのですが他の二人の方には触れようもありません。

でも、半世紀ぶりにお会いできて、本当に良かったと思っています。

お身体にくれぐれもご留意の上、ご活躍のほど、祈念しております。

阿部基治 拝